第54話
クロエは気だるそうに椅子にもたれかかり、続ける。
「また修行を放り出すのかえ? わしは別に構わぬが、そうなれば二度とお主と
「…………!」
何か言いたげに口を開いたルシファーだったが、わずかに唇を震わせて、ゆっくりと閉じた。
さまざまな葛藤をしているのだろう――。それがはっきりと見て取れる表情だった。
「ルシファー様。わたくしは大丈夫です。もとより一人で戻るつもりでしたから」
そう言って笑うベアトリクスの表情は実に清々しく、ルシファーとは対照的だ。
「…………でも、」
「心配ご無用です。帰国したとして、ルシファー様もゴミを拾うおつもりなのですか? 元王子がそんなことをしてはいけませんわ」
「どうするルシファー。今宵の鍛錬をするのかしないのか早く教えてくれ。わしはもう、この話に飽きてきた」
クロエは地図に目を戻しており、もう頭を切り替えているようだった。
ルシファーは唇を噛んで言葉を探していた。眉間にしわが寄り、形のいい眉が歪んでいる。
そして、何かを諦めたような表情にふっと変わる。
「…………すまない、ベアトリクス」
深いため息と共に、ちいさく呟く。
「ユリウスや疫病の脅威があるところにお前を一人で帰すことは危険だと思っている。――でも。俺は大魔法使いにならなければならない。……お前のために」
「ルシファー様」
驚くベアトリクスの手を取り、ルシファーはまっすぐに彼女を見つめる。
「俺が大魔法使いになったら、すぐお前のもとへ向かう。そうなれば、あらゆるものから守ってやることができる。辛い思いなんて、二度とさせやしない」
ルシファーの大きな手にくるまれて、両手はとても暖かい。かすかに彼の少し早い拍動が伝わってきて、自然と頬が赤くなる。
「守るだなんて滅相もない。わたくしのことよりも、ルシファー様にはご自分の幸せを大切にしていただきたいです」
「俺の幸せは、ベアトリクス、お前だ」
はっきりと断言されて、ベアトリクスの赤い顔は一層赤くなる。
ルシファーの紫の瞳には、強い決意の色が浮かんでいた。
「お前が俺の生きる意味を取り戻してくれた。だから、どうか俺を待っていてほしい。俺がお前を幸せにするチャンスをくれないか」
それはつまり。
はっきりと言葉にはしなかったものの、ルシファーが言いたいことを正しく理解したベアトリクスは、大きな瞳いっぱいに涙が溢れてくる。
熱く滲む水面越しに彼を見つめ、とうの昔から決まりきっていた返事をする。
「もちろんです、ルシファー様! 修行を終わらせたら迎えに来てください。あなたが来る頃には、きっとまた立派なゴミ屋敷になっていると思いますわ!」
――ひしと抱き合う二人をクロエは優雅に眺める。
己が大魔法使いになる前、そういえば同じようなことを言ってくれた男がいたような気がする。そうふと思い出した。
だがしかし、最早彼女にとってそれはどうでもよいことであった。それから何百年の時が流れ、男はとっくに死んでいる。自分の中に残っていた寂寞の想いも、こうして忘れるほどに薄れているのだから。記憶を辿ってまで思い出したいとも思わなかった。
「大魔法使いとは面白くもあるが、退屈で難儀でもある。……ルシファーよ、お主の未来を決めるのはお主自身じゃ」
偉大なる大魔法使いは、誰に言うでもなく呟いたのだった。
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