第49話
その大魔法使いは、名をクロエといった。
「ルシファーは今宵から修行じゃ。ベアトリクスには明日から頼みたいことがある。今夜は精々ゆっくりするといいぞえ」
真っ赤な唇がゆっくりと弧を描く。
妖艶でありながら、凛々しさを感じさせる切れ長の瞳。柳のようにすっとした眉に、色白の肌。床まで届く美しい髪は、根本が白く先が黒い。見事なグラデーションになっていた。
一目で分かる圧倒的な存在感。世界に数人しかいない大魔法使いと対面して、ベアトリクスは感激し、同時に恐縮していた。
「もっ、申し訳ありません! いつでもなんでも仕事を言いつけてくださいませ。全力でやらせていただきます」
「まずは体を休めねば仕事もできん。……全く。修行を放棄したと思ったら女子を連れて出戻るとは。しっかり鍛え直さねばあるまいて」
「……悪かった。もう一度、やらせてほしい。やっぱり俺は大魔法使いになりたいんだ」
ルシファーは深く頭を下げた。
その様子を見てクロエはにやりと笑った。
「まあよい。退屈していたところだから、暫くの暇つぶしにはなろうて。どこまでお主が耐えられるか見ものじゃのう」
「……俺は本気だ。もう逃げない」
クロエの口角は上がっているものの、目は全く笑っていない。
その冷え切った美貌に、ベアトリクスはぶるりと背筋が震えた。
そういえば、かつてルシファーが魔法の鍛錬で死にかけたと言っていたことを思い出す。大魔法使いになる修行とは、生死がかかったものなのだということを目の当たりにした感じがした。
早速今から森で鍛錬を始めるらしい。
クロエは太陽や月をモチーフにした刺繍が施された深紅のローブをひるがえす。立ち上がると背丈はベアトリクスより小柄であるが、目に見えない威圧感を含めると、その姿はこの場で一番大きく感じられた。
彼女の後に続いて、緊張した面持ちのルシファーも出ていった。
「…………ルシファー様。どうかご無事で」
そう願わずにはいられなかった。
一人になったベアトリクスは、クロエの言葉に甘えて休むことにした。
初めての国外旅行なうえ、徒歩の移動でさすがに足が疲れている。ベストパフォーマンスを出すためには適切な休息が必要だと知っているベアトリクスは、湯を借りたのち、あてがわれた小さな部屋で布団にくるまった。
「温かいわ」
毛布の中は既にほんわかと暖かく、嗅いだことのないハーブのような香りがした。
頬が緩み、張り詰めていた心もほぐれてゆくのを感じる。
ゴミ屋敷を失って、そして目標を失ってから目まぐるしく過ぎる日々だったものの。とにもかくにも無事にたどり着けたことに安堵して、ベアトリクスは深い眠りに落ちていったのだった。
◇
翌朝。
起床して居間兼台所に向かうと、クロエが優雅にティーカップを傾けていた。部屋には珈琲の香ばしい香りが漂っている。
「おはようございます。クロエ様。とてもいいお部屋と寝具を貸していただきありがとうございました」
ベアトリクスが丁寧に腰を折るも、クロエは無表情で返事をする。
「よい。それでベアトリクス、お主にも仕事を与える。この羊皮紙に書かれた植物を集めてほしいのじゃ。数は多い分には困らない」
渡された羊皮紙の束を見ると、ずらりと植物らしき名前が並び、簡易的な絵も描かれていた。
「かしこまりました。薬草、でしょうか」
知っているものもあれば、初めて見る名前もある。ざっと五十はありそうだ。
「うむ。お主は何でも拾ってきてしまう呪いをかけられているのだろう? であれば収集仕事が適任じゃろう。励め」
「は、はいっ!」
「では、わしは寝る。飯は適当に食べてくれ。森の果実を採っても構わない」
そう言うと、クロエは気だるそうに席を立った。
そういえば、旅の途中、魔女のなかには昼に寝て夜に活動する者がいるとルシファーが言っていたことを思い出す。
そして姿の見えない彼はまだ鍛錬とやらから帰っていないのだろう。
「ありがとうございます! おやすみなさいませ」
ほとんど目をつむりながら去っていくクロエ。ベアトリクスは壁に頭をぶつけやしないだろうかとヒヤヒヤしたが、彼女はするすると廊下を進み、一番奥の部屋へと入っていった。
扉の締まる音を聞いたのち、ベアトリクスは再び羊皮紙に視線を落とす。
「仕事を与えて下さったことに感謝ですわね」
ゴミ処理場を作る、グラディウスを清潔な国にするという夢のためにゴミ拾いをしていたが、それはもう叶わぬものになってしまった。
目標を失うということを想定していなかっただけに、そのショックは大きかった。
しかし、ルシファーの存在に救われて、何の縁かクロエのもとへ世話になることになった。
ここで薬草採集をしながら、今後についてはゆっくり考えていけばいい。
この時のベアトリクスは、心からそう考えていた。
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