第44話

「……は?」


 ゴミ屋敷を片付ける。

 今、この男はそう言ったのか?

 青年の黒い瞳を凝視する。しかし、そこには何の感情も浮かんでいない。かえってそれが異質にも感じるぐらいに。


 ベアトリクスは、えも言われぬ嫌な予感がした。


「あの。おっしゃる意味が分からないのですが」

「ちょっと中に入りますよ~。ああ、これはひどいなぁ。玄関ホールもゴミだらけだ!」


 立ち尽くすベアトリクスの横を通り、男は勝手に中に入っていく。

 無造作に踏みつけられる、床に広がるゴミ袋。自分もルシファーだって日々そうしているのに、なぜかこの男にそうされると、嫌な気持ちがして仕方がなかった。


 一体全体、何の用なのか。早朝から屋敷に闖入し、ニヤニヤとゴミを眺め回している男に構っている時間は正直無いのだ。冷やかしなのであれば、早く帰っていただきたい。


 ベアトリクスはぎゅっとこぶしを握り、語気を強めた。


「どちら様か存じませんが、わたくしはこれから仕事に行かねばなりません。御用が無いのでしたらお引き取りいただけませんか?」


 そう言葉を投げると、青年はゆっくりと振り返る。そして、口角を上げて微笑んだ。


「――ねえお嬢さん。こんな家、住みにくいでしょう? 可哀そうに、片付けができないんだね」

「いいえ。これは、わたくしが望んでこうなっているのです。分別はしっかりしておりますし、住みにくくはありませんわ」

「強がりを言わなくてもいいんだよ。別に、恥ずかしいことじゃないからね。人には向き不向きがあるから」


 何だろう? ベアトリクスは違和感を覚えた。

 会話が上手く嚙み合わない。目の前の青年は人畜無害そうな表情を浮かべているものの、やっぱり異質な印象が拭えない。


「――失礼ですが、お名前をお伺いしても? わたくしはブルグント伯爵が娘、ベアトリクスと申します」

「僕の名前はね、毒島盛男ぶすじまもりお。でも、あんまり気に入ってない。元の世界ではね、『掃除の魔術師』とか『ミスタークリーン』って呼ばれていたかな。テレビでも一世を風靡したんだよ~」

「元の世界? 掃除の魔術師、ですって?」


 そしてテレビとは何か。初めて聞く表現だ。

 違う世界から来た魔術師、なのだろうか。そんな人がどうして自分の屋敷に来て楽しそうにしているのか、ベアトリクスには皆目見当が付かなかった。裏庭で剣を振っているルシファーを呼んできた方がいいだろうか――?


「まあ、ベアトリクスさんはそこで見ていて。すぐに綺麗にしてあげるから!」


 そう言うと、毒島は右手を天に向かって突き上げた。


「スキル発動! 断行・捨行・離行ッ!!」

「!?」


 ぐるぐると凶悪に管を巻く疾風が、轟音を立てて床から立ち上る。

 体験したことのない風の勢いに、思わず顔を庇う。はためくドレスがびしびしと肌を打ち、痛みを感じた。


「ベアトリクス嬢! 何事だ!?」

「でんか……っ!」


 音を聞きつけたルシファーがホールに飛び込んでくる。

 そして、高笑いをする毒島と竜巻に飲み込まれてゆくゴミ袋、疾風に圧倒されるベアトリクスを目にし、大きく目を見開いた。

 しかし、そこは百戦錬磨の優秀な魔法使い。すぐに上下左右に目をやり、状況を飲み込んだ。


「おい! お前、昨日の男だな。何をしている!?」


 毒島に向かって叫ぶルシファー。大声を出さないと、風にかき消されて声が届かない。


「何って……大掃除だよ? 散らかったところに住んでいると、心まで汚れてくるんだ。ゴミを片付けること、それは己の心を美しくすること。心の美人女子を増やす、それが掃除の魔術師の使命なのさっ!!」

「掃除の魔術師、だと!?」


 そんな二つ名なんてあっただろうかと記憶を一瞬で振り返るも、答えは「初耳」である。


 ――見慣れないT字型のシャツに、固そうな生地の青いズボン。耳には金や銀の宝飾品が付き、グラディウス王国では見ない格好をした男――。


 他国からの刺客なのだろうか? 男の竜巻は見事であるから、どこかできちんと魔法を学んだ者なのかもしれない。

 しかし、理由はともかく貴族であるベアトリクスの屋敷に上がり込んで無体を働くことは、れっきとした違法行為だ。とにかく、彼のしていることを止めさせねばならない。


「今すぐその魔法を停止しろ!」


 一応呼びかけてみるも、やはりというか、男は愉快そうに笑みを深めるだけでゴミを飲み込んでゆく竜巻を引っ込めようとはしない。


「……だよな。そういうことなら、こっちも手加減はしない」


 目には目を、歯には歯を。

 あいつの竜巻を上回るものを打ち出して、打ち消してしまえばいい。

 男自身を攻撃することは、万が一他国の高位貴族だった場合は国際問題に発展してしまうから避けたかった。


 ルシファーはベアトリクスを背に庇い、静かに呪文を詠唱する。


「אור הרעם של אל הרו」


 言葉が終わると同時に、意識が飛びそうなくらいの暴風が吹き荒れた。

 轟音というレベルを超越して、むしろ何も聞こえない。ベアトリクスは上も下も、右も左も分からない。自由落下する真っ白な空間に放り出されたような感覚に陥った。


 これでは、あの毒島という男も封じられてしまっただろう。


 そう確信したものの――次にベアトリクスが耳にした声は、初めて聞くルシファーの愕然とした声だった。

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