第25話
起きてルシファーの帰りを待つつもりだったが、いつの間にか眠ってしまったようだった。
ベアトリクスがゆっくりと瞼を上げると、ゴミ袋の隙間から明るい日差しが差し込んでいた。
「――しまった! 朝のゴミ拾い!」
がばりと跳ね起きて時計を確認する。短い針は九を指していた。
「ああ、なんてこと。寝過ごしてしまったわ……」
寝坊してゴミ拾いに出られないなど、一度もなかったことだ。頭を抱えて落ち込むが、昨日は暴漢に襲われるなど激動の一日だった。疲れていたから仕方ないと自分に言い聞かせ、気持ち新たに身支度を整える。
サイドテーブルに置かれた香油瓶を手に取り、とろりと中身を掌に出す。
それを艶のある金髪に馴染ませていき、指通りをよくしていく。仕上げに櫛で撫でつかせ、赤いリボンでハーフアップに結い上げる。
ドレスは作業服も兼ねているため、動きやすくそれでいて丈夫なものを仕立ててもらっている。クローゼットから青い一着を取り出し、てきぱきと身に着けていく。
十分かからず準備を終わらせて部屋を出た。
そこで、そういえばルシファー殿下はどうなっただろうと思い至る。熟睡してしまったため、帰宅する音も全く聞こえなかった。
「殿下~! 帰ってらっしゃいますか~!?」
大声を出しながらゴミをかき分け進んでいく。
すると、すぐ近くから返事が返ってきた。
「ここにいるぞ」
「きゃあっ!?」
ベアトリクスの部屋を出てすぐの、玄関ホールの中心辺り。
ぼろぼろになったルシファーが、ゴミ袋に寄りかかるようにして座り込んでいた。
「殿下! そのお顔とお洋服……!」
「ミカエルめ。手加減なしでかかってくるから、さすがに無傷というわけにはいかなかった」
見事に左右対称だった端正な顔には青い痣ができている。黒く高級そうな装束はところどころ破れ、赤く滲んでいる個所もあった。
元王子がこんな傷を負うなんて。とんでもないことになったとベアトリクスは口を手で覆う。
「――痛いですよわね。今、救急箱を持ってきますから」
「……すまない」
急いで自室に引き返し、白い箱と一緒に彼女は戻ってきた。
手早くガーゼに酒精を染み込ませて、脇腹の傷に押し当てる。昔騎士である父や兄たちの手当てをよくしていたので、手順は分かっている。
「っ!」
唇を噛み、眉間にしわを寄せるルシファー。
「す、すみません。染みますよね。少し我慢していただけますか」
破れた服からのぞく腹筋にどぎまぎしながら手当てを続ける。
筋肉など、グラディウス王国では空気より当たり前に存在するものだ。それを見て心臓が高鳴るなど、やはり自分はどうかしている。ベアトリクスは恥ずかしくてたまらなかった。
黙って作業をしていると、この心臓の鼓動がルシファーに聞こえてしまうのではないかと不安になる。
「――治癒魔法はお使いにならなかったのですね」
ふと浮かんだ疑問を口にする。
ルシファー王子といえば国一番の魔法の使い手でもある。一般人が使うことができない高度な治癒魔法だって得意としていたはずだ。どうして傷だらけのまま帰ってきたのだろう?
「ああ。ちょっと大きめの魔法を使ったから、魔力温存のためにな」
「大きめの魔法、ですか」
「くくっ。ミカエルのやつ、当分街を歩けないと思うぜ。あの驚いた表情は実に間抜けだった」
人の悪い笑みを浮かべるルシファーに、ベアトリクスは嫌な予感がした。
――この王子は一体どんな魔法をかけたのか。すごく気になったが、聞かないほうがいい気がしてならなくて、彼女は口をつぐんだ。
「まあ、あとは一回くらい傷をそのままにするのを経験してみたかったのもある。――俺は王子だったから、鍛錬や従軍で傷を受けると勝手に治されてしまうんだ。主に神官長だったな」
「それはそうでしょうねえ。高貴なお身体ですもの」
脇腹を終えて大腿部の傷に移りながら相槌を打つ。
「それは分かるんだが。でも、多くの騎士や冒険者はそういう訳にはいかないだろ。傷を負いながらも日々戦っているんだ。その気持ちを俺も知りたいと思っていた」
その言葉には、ルシファーの純粋な気持ちが溢れていた。
呟くような小さな声だったが、ベアトリクスは胸を打たれた。
民の痛みを知りたいなどと言える王族が、この世界に一体どれほどいるだろう。ルシファーを追放したことは、国家にとって大きな痛手になるに違いない。
そう思ってベアトリクスは小さなため息をついた。
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