第16話
「今日は本当にすみませんでした。まさかミカエル様に噛みつくなんて……。帰ったらよく言い聞かせますので」
「いいえ、お気になさらないでください。わたしこそ、ベアトリクス様のハンカチを汚してしまって申し訳ありませんでした」
日はとっぷり暮れて、一番星が顔を出している。
ミカエルに送られて、ベアトリクスは屋敷の前まで帰ってきた。
「有意義なお話ができてよかったです」
「わたくしもですわ。とても心が躍りました」
「では、また明日ということで」
「ええ。とても楽しみですわ」
月明りが美しい金髪と銀髪を照らす。
令嬢は優しく微笑み、冒険者ははにかんだように口角を上げた。
涼やかな夏夜の風が、二人の間を通り抜ける。
「では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
令嬢がゴミの山に消えるまで、男はその姿を見送り続けた。
◇
屋敷の中に入ると、ルシファーが腕を組んで立っていた。形の良い眉がしかめられ、機嫌が悪いことは明らかだった。
「遅い」
「あら殿下。……あなたがミカエル様に失礼なことをしたので、埋め合わせに夕食をご馳走させていただいたのですわ。噛みつくなんて、もう二度としないでくださいませ」
不機嫌なルシファーにひるむことなく、ベアトリクスは言い放つ。
「……何だよ、食べて来たのか」
長いまつ毛がアメシストのような瞳に影を落とす。
そのがっかりした様子に、彼女は首をかしげる。
「それが何か……。ああ、殿下の食事ですね! すみません。今用意しますから、少々お待ちくださいね」
厨房に急ごうとするベアトリクスを、慌てて引き留める。
「いや! 食事は、その……」
「? どうかしましたか?」
青い瞳がきょとんと見開かれる。
その無垢な表情に、ルシファーは言葉に詰まった。
――――言えない。食事を作って待っていたなんて……!!
最後の最後で妙なプライドが邪魔をして、はくはくと口を動かす。
その様子をベアトリクスは不審に思う。
「……殿下、随分苦しそうですけれど。お加減が悪いのですか?」
「そ、そうではなくて……その……」
彼女の手首をつかむ腕に自然と力が入る。
しかし、しばしの沈黙の後出てきた言葉は非常に不本意なものだった。
「…………いいや。なんでもない。食事はいらないから大丈夫だ」
「そ、そうですの。では、おやすみなさい……?」
怪訝な顔をしながら、ベアトリクスは自室に入っていった。
脱力したルシファーはゆっくりとゴミ袋に腰を下ろす。そして長い指でくしゃくしゃと髪をかき回した。
「あー。どうしてこんなに緊張すんだろ。たかが飯じゃねえか。……情けない」
もっと困難な状況など、今までいくらでもあったはずだ。
度を越した鍛錬で師匠に殺されそうになった時とか、従軍して魔境へ遠征に行った時とか、刺客に襲われた時とか。
血気盛んなグラディウスの男らしく気合と根性、そして膨大な魔力を以て圧倒してきた経験が一切役に立たなかった。
「――まあ、ゆっくりやるか。今日は練習だったと思えばいい」
お世辞にも作った料理の出来はよくなかった。
元王子という立場上、調理をしたことなどない。しかし、第四王子ルシファーは元々素直で勤勉な性格だった。普段観察しているベアトリクスの調理風景を思い出し、試行錯誤しながら作ったのだった。
優秀であるにもかかわらず、誰にも認められず卑屈になり、ついには城を追われたルシファー。
そんな彼が一人の女性を本気で振り向かせたいと思った時、どう変わるのか?
ベアトリクスの困惑の日々が始まった。
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