第15話
「おっと! はは、やんちゃな犬ですね。元気があってよろしい」
「ちょっと、でん……! だめじゃない! すみません、ミカエル様」
がたりと椅子を引くミカエルにベアトリクスが駆け寄る。
むろん全力で噛みついたわけではないが、彼のすねには血が滲んでいた。ルシファーは耳を倒し、そそくさと椅子の下に隠れる。
「まあ、血が……! 大事な体に傷をつけてしまって、ほんとうに申し訳ありません」
「これくらい全く大丈夫ですよ。日頃の鍛錬ではもっと深い生傷を作っていますから」
「でも……」
泣きそうになるベアトリクス。急いで鞄からハンカチを取り出し、跪いて傷に押し当てる。
貴族令嬢が男の足元に跪くなど考えられないことだ。驚いたミカエルは慌てて引きはがそうとする。
「ベ、ベアトリクス様。そこまでしてくださらなくて――」
「いいえ。血が止まるまで、こうさせてください」
眉を下げて見上げるベアトリクスに、思わずミカエルは顔を赤くする。
何度説得しても彼女の決意は固く、その場から動こうとしなかった。
『ちっ。逆効果だったか』
面白くないルシファーは、椅子の下から出て走り出す。
「あっ、でん……! どこへ行くのですか! もう!」
目を吊り上げる彼女に目もくれず、ルシファーは地面を蹴る。
『――ふん。つまらんな』
あっという間にゴミ屋敷にたどり着いたルシファーは、自室に戻ってふて寝をしたのだった。
◇
ふて寝をしたものの、一時間も経たずに起きてしまったルシファー。
今度は残してきた二人のことが気になってしまい、そわそわとベッドを降りる。
「くそ……。なんでこんなに気分が悪いんだ。ただ一緒に茶を飲むだけなら一時間くらいで解散か?」
令嬢と付き合いをしてこなかったルシファーは、男女のティータイムがどのようなものかを知らない。
ベッドのふちに腰かけながら悪態をつく。
「……しかも、よりにもよってミカエルかよ」
SS級冒険者のミカエルは二十三歳。ルシファーの五つ上であり、ベアトリクスの六つ上である。
五つしか変わらないのに、かたや英雄並みの冒険者。かたや城を追い出され、ゴミ屋敷に世話になっている無職王子だ。
その現実を目の当たりにして、彼は大きなため息をつく。
「……俺、何やってんだろう」
ルシファーは初めて、自分の現状を情けないと思った。
悔しい、情けないなど、はるか昔に置いてきた感情だ。いくら頑張っても認められないことから、すべてを諦めて堕落していたのだから。
久方ぶりに蘇る、人間らしい感情。それはよく冷えた水のように彼の身体を駆け巡った。
ぽすんと後ろに倒れて、白く綺麗な天井を見上げる。
――ベアトリクス嬢はゴミ屋敷に住んでいるが、年頃の令嬢だ。
もしかしたら実家が縁談を持ってくるかもしれないし、放っておいてもミカエルが申し込むかもしれない。
この自由気ままで驚きに溢れた生活は、いつまでも続くわけではないんだ。
そう思うと、胸が切なくなった。
ここでの生活は城にいた頃より断然楽しくて、毎日が楽しい。
ベアトリクス嬢のやることを眺めたり、来客を観察したり、犬に化けて街に出たり。彼女と共にいると、これまでの人生で積み重なった卑屈な気持ちがどんどん薄れていくようだった。
自分は今、一生手に入らないと思っていた心地よい環境にいる。
それを誰かに邪魔されるなど、絶対に嫌だ。
「あいつが誰かのところに嫁ぐ? そんなのあり得ない。――ベアトリクスは俺のものだ」
言葉にすると、自分でも驚くほど身体にエネルギーが満ちてきた。
第四王子ルシファーは放漫で自分勝手。
そんな不名誉な噂も、今は上等だと思えた。
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