第79話

寒い時期は終わりを迎え、ぽかぽかと暖かい陽気の日が続いている。

 動きやすい薄手のワンピースに長袖の上着を羽織り、自室に設置された魔法陣の上に乗る。

 ぐにゃりと視界がゆがみ、魔法陣が私を研究所へと転移させ始める。


 ――毒菓子事件は半ば迷宮入りしかけていた。

 デル様はどこまでも犯人を追いかけると言っていたけれど、個人的にはもうどうでもいいやと思っている。王妃になれば命を狙われることは時々ありそうだし、いちいち気にするより割り切った方が合理的な気がするからだ。

 そうこぼしたら「本当にセーナ様はおかしな方ですわ」なんてロシナアムに呆れられてしまったけど。


(でも私は気にしないわ。かのスティーブ・ジョブスもこう言っているもの。『夜眠るとき、我々は素晴らしいことをしたと言えること、それが重要だ』ってね)


 犯人探しも大切だとは思うけれど、心の欲望に従うのなら私は研究や調合に心を砕いて日々を過ごしたい。夜ベッドに入ったとき、それが何より充実した気持ちになれるから。一応限りある人生だから、日々の満足感は大切にしていきたい。


 もとより犯人探しの実務において私は戦力外だ。

 手伝えることがなくなった時点で気持ちを切り替え、本来の仕事に打ち込むことにしたのだ。


 ――そんなわけで、研究所は本格オープンしてちょうど3か月が経ったところだ。職員の採用から始まり、各研究員の研究計画のチェックや実験器具の説明会など忙しくしていたが、ようやくひと段落ついた。


(この3か月は本当に忙しかったなぁ……。でも研究組織を立ち上げるだなんて滅多にできることじゃないし、すごくワクワクしたわっ!)


 ちなみにブラストマイセスに研究員という職業はなかったので、公募で職員を募集した。

 100名の募集のところ、国立の施設で給料もそこそこもらえるという好条件が魅力だったのか約1000名の応募があり、採用を行う私とドクターフラバス、人事部の担当者は嬉しい悲鳴を上げた。


 熱意のある者と生活に困っている者を優先して採用した結果、みな物覚えが良い。「こういう薬が欲しい!」「こんなものを開発したい

!」という研究企画書も非常に興味深いものが提出されている。この研究所がブラストマイセスの未来を明るく照らす手ごたえは十分に感じている。


 ただ、採用面接のピーク時は特に忙しくて帰宅が深夜になる日が続き、デル様は少しへそを曲げてしまった。「仕事が好きなのは分かるが、私のことも忘れないでほしい」と。


 のめり込みすぎるのは私の悪い癖だと自覚はあるので、素直に謝った。デル様は私のことを心配しつつも、こんなに自由にさせてくれる。いくらブラストマイセスが大らかなお国柄だとしても、国王の婚約者としてはあり得ない自由だとロシナアムが教えてくれた。それを許容してくれる彼にはすごく感謝している。もっとその気持ちを態度に表してしていかないとな、と反省した。


 ――目の回るような日々を懐かしんでいるうちに研究所につき、そして所長室に到着した。


 手提げバッグを戸棚にしまう。そして、口にゴムをくわえながら手早く髪をひとつにまとめる。

 出勤日に華美な装いは必要ないし、化粧やヘアワックス類はコンタミネーション雑菌混入の原因にもなる。そのためロシナアムによる身支度は断り、自分で身なりを整えることにしている。研究所に出勤して一研究者になるときだけ、次期王妃という身分に見合った身だしなみが免除されるのだ。

 備え付けの小さな洗面台で手洗いうがいをし、一口水を飲んで喉を潤す。

 これが私の出勤後のルーチンだ。


 壁にかけられた白衣を羽織りながら、スケジュール帳に目を走らせる。


(うん、今日はようやく1日フリーね。自分の実験に取り組めるわ!)


 スケジュール帳をデスクの引き出しにしまい、代わりに実験ノートと筆記用具を取り出す。

 所長室から続き部屋になっている実験室に移動すると、すでに助手が出勤していた。


「おはようございますサルシナさん。すみません、待ちましたか? ――あ、それはもしかしてトロピカリと王城の土でしょうか?」


「ああ、ここに持ってきたよ。少しでいいんだったね。これで足りるかい?」


 サルシナさんの前に置かれているのは薄汚れた小さな巾着だ。彼女はふくよかな手で一つ手に取り、口を開けて中を見せてくれる。

 巾着の半分ほど、茶色の土が見えた。


「十分です、ありがとうございます! ――それにしても、サルシナさんが副所長兼助手だなんて未だに不思議な気分です」

「そりゃあたしもだよ! トロピカリでちょっと薬草を売ってただけなのに、知識を生かしてセーナの助手をしないかって陛下が連絡してきてね。びっくりしたさ」


 両手を肩のあたりで広げておどけて見せるサルシナさん。


 トロピカリに住んでいたときに卸売りのお得意さんだった彼女は、言うなればブラストマイセスでの母っていう感じの存在だ。困ったことはないかとか、ちゃんと食べているかとか、仕事以外の面を気にしてくれた数少ない人物だ。


 そのことを知ったデル様が、副所長という肩書で彼女を私の助手に登用してくれた。助手のほかにも研究所での護衛を兼任しているらしい。どうやらサルシナさんは魔族のなかでも位が高く信用できる人物で、護衛としても強いのだとか。太った中年女性の姿からは想像もつかない話だけど……。


「急な話で困ったかもしれないですけど、私はすごく嬉しいです! またサルシナさんとお仕事ができるなんて思ってもみなかったですから。サルシナさんはお母さんみたいで一緒にいると落ち着きますし」

「はあ、あんたは相変わらずの人たらしだねぇ。ま、嫌な気はしないけどさ。あたしもトロピカリより刺激の多い毎日を送れそうで期待しているよ。何より幸せそうなあんたらは見ていて飽きないからね?」


 ニヤッと意味ありげな視線を送るサルシナさん。

 男女の機微に疎い私だけど、さすがにこれは分かる。


「もう、恥ずかしいです……」


 恋愛関係でからかわれるのには慣れていない。

 わははと豪快に笑うサルシナさんをにらみながら、私は顔を赤くすることしかできなかった。


「――――それで、今から何をするんだい? 土なんか取ってきて、これが薬になるのかい?」


 目の前にある場違いに薄汚れた2つの巾着袋。

 黙っていたら掃除のおばちゃんに持って行かれそうな代物だけど、私にとっては宝の山なのだ!


「そうですそうです、変な話よりも実験をしましょう! ええと、私たちの研究テーマは簡単に言うと『ブラストマイセスオリジナル抗生剤作り』です!」

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