第75話
なんやかんや、ブラストマイセスに戻ってから1カ月が経過した。実に平和な毎日だ。
私は今、広大な庭に寝ころんで光合成中だ。まだ少し冷える季節だけれど、降り注ぐ燦々とした陽の光が気持ちいい。
シンプルなワンピースに、ぺたんこの靴。布を広げて芝生に寝そべる私は誰がどう見ても次期王妃ではないだろう。目をつむれば鳥のさえずりや、遠くで騎士団が訓練をする掛け声が聞こえる。――繰り返しになるが、実に平和だ。
先ほどまでは、初めて見るヒョウ柄芋虫のスケッチをしていたのだけれど。暖かな日差しが眠気を運んできたので、日向ぼっこに切り替えたところだ。
なぜこんなに怠惰な時間を過ごしているかと言うと、結婚までの1年をかけて行われる予定だった王妃教育がもう終わってしまったからだ。
(「セーナ様は飲み込みが早すぎます!」 っておじいちゃん先生が驚いていたわね)
3週間ですべての学習と課題を終えてレポートを提出した、その時の虚を突かれたような先生の表情を思い出し、ふふっと笑いがこぼれる。
久しぶりの勉強が楽しすぎて、夜な夜な1人で学習を進めていた。知らないことを知れるのはすごくそそられる。頭を使うような課題もやりがいがあり、先へ先へと進めていたのだ。
(人より多少記憶力は良いけれど、別に天才でも何でもないし褒めすぎよ)
そんなこんなで研究所ができるまで私は暇人になってしまった。そろそろ完成するそうだけれど、具体的なスケジュールは分からないそうだ。
午前中は広大なお庭でスケッチや日向ぼっこ、午後は図書館というなんとも贅沢な生活。しかしながら、数日経って早くも飽きがきているところだ。
ふわぁ~~。
たまらず大きなあくびを1つ。
(……ん? 誰か来るわね)
デル様から魔力を得た私は「第六感」みたいなものがちょっとだけ鋭くなっている。ゆっくり目を開くと、音もなく現れた侍女ロシナアムが一礼するのが見えた。さすが暗殺者だけれど、別に私にまで気配を消さなくてもいいんじゃないかと思う。
「セーナ様、お休み中に失礼いたします。朗報ですのよ、国立医療研究所が完成しましたわ!」
(!!)
腹筋がバネのように躍動し、勢いよく飛び起きる。
「そう、ついにできたのね!! ねえ、見学だけでいいからチラッと行くことはできないかしら!?」
思わずロシナアムに詰め寄って、ぐらぐらと彼女の肩を揺らす。
半目になったロシナアムが、ため息をつきながら口を開いた。
「もちろんですわ。セーナ様は所長ですから、昼寝するより見学に行った方がよろしいかと。もう見学の手配はしてありますので」
「やったぁ! さすがロシナアムね!」
午後から見学できるよう、ロシナアムが手配してくれていた。相変わらず態度はツンツンしているけれど、仕事ぶりはすごく優秀だ。
そしてなんと、この国の偉い人になっているドクターフラバスも一緒に見学するらしい。デル様は公務が早く終われば合流できるかもしれないとのこと。
(ドクターフラバスはお元気かしら? 10年ぶりに会えるのが楽しみだわ!)
◇
期待に心躍らせながら早めの昼ご飯をかき込み、あらかじめデル様が設置してくれていた魔法陣で研究所に向かうことにする。
――研究所は王都のひとつ手前の都市、ロゼアムに建てられている。研究所を建てられるような、まとまった土地が王都になかったからだ。
それでもロゼアムは近い。当然馬か馬車で毎日通勤するつもりだったけれど、心配性な婚約者は許可してくれなかった。私の部屋と研究所をつなぐ魔法陣を設置したからそれを使うように、と念を押されていた。
私はデル様の魔力を持っているから、魔法陣に触れるだけで起動できる。
まばゆい光につつまれ、ぐにゃりと空間が曲がり。…………目を開けると、ロビーらしき開けた場所にいた。
ただよう新築特有の香り。床と壁全体に大理石を惜しみなく使っているようで、真新しいそこはグレーにぴかぴかしていて眩しい。一定間隔で太い柱が立っており、大きなガラス張りの窓の近くには小さなテーブルとソファがおいてある。無駄な装飾は一切排除されており、ひんやりと無機質な感じが研究所っぽくて懐かしくなる。
見渡してほうと感嘆の息を漏らしていると、背中のほうから声がかかった。
「やあ、セーナ君。久しぶりだね。まさか君が王妃様になるだなんてね! あの陛下が婚約したってことで、街は毎日お祭り騒ぎだよ」
片手を上げながら近づいてくる赤毛の中年。眼鏡越しに見える目の下には相変わらずクマが張り付いている。
「ドクターフラバス!! お久しぶりです! ……王妃様って気が早いです、まだ婚約者ですよ。……その節は大変でしたね」
嬉しくなって駆け寄り、どちらからともなく自然と握手を交わす。
魔物が変化している姿だからだろうか、10年経つのに近くで見ても全然老けた感じはしない。
「あー、疫病の件はね、本当に大変だったよね。セーナ君が居なくなってから国中で流行り出してさ、冗談じゃなく過労で死ぬかと思ったよね。僕はユニコーンの魔物だからそこそこ生命力あるんだけど、それでも本当にキツかったよ~」
相変わらずちょっとゆるいドクターフラバス。ぽりぽりと頭をかく姿はとても偉い医者には見えない。そういうところが親近感あっていいよねと思う。
「でも君が王妃で研究所長になるならこの国も安泰だよ。それに、陛下は君が居なくなってからは前にも増して孤高の存在ってかんじだったからさ。君が戻ってからは嬉しさ隠し切れないようで、こっちまで幸せな気持ちだよ」
「すみません、ブツを取りに行ってまして……」
不在だった10年間のデル様の様子について耳にするのはこれが初めてだった。孤高の存在、という言葉にじわっと胸が痛む。そうさせたのは紛れもなく私なんだから。
いたたまれない気持ちになった私を知ってか知らずか、ドクターフラバスは明るい調子で続ける。
「ああ、セナマイシンでしょう。ありがとうね、我々のためにそこまでしてくれて。治療薬に国民みんな大喜びだよ、これで命が助かるってさ。もちろん私たち医療者もだよ、現場もかなり楽になるからね」
疫病の特効薬であるセナマイシンは、私が戻った翌日デル様によって大量に魔法合成され、すみやかに各地の病院に配布されていた。
ちなみに、ドクターフラバスには私の事情を全て話したとデル様が言っていた。異世界人だということや、冥界から嫁に連れてきたとか、もう丸っと全部だ。「今後国の医療を発展させるためには彼の力が必要で、セーナと連携することも多いだろう。それに、フラバスは信頼できる者だ。悪いようにはならない」という考えからだ。
――――いろいろ大変だったけれど、こうしてお礼を言ってもらえると国の役に立てたことを感じられて、素直に嬉しい。デル様への申し訳なさを抱えつつも、ドクターフラバスに微笑みを向ける。
「薬師として当然のことをしたまでです。きっとドクターフラバスでも、そういう状況だったら同じ手段を取っていたでしょう?」
「うーん、まあ、そうかもね。医療関係者の自己犠牲ぐせは、もう職業病だよね」
眉をへの字にして苦笑するドクターフラバス。
「間違いないです。あっ、それよりすごいじゃないですか! ドクターフラバスは疫病をきっかけに菌類の研究を始めたって聞きました。細菌に真菌にと、もうかなりの種類が同定されていて驚きましたよ!」
そう。デル様とおじいちゃん先生が教えてくれたのだけど、ドクターフラバスは今やこの国の菌類研究の第1人者になっていた。疫病が発生した時点では菌という概念すらなかったこの国で、次々と新たな菌を見出しているのだ。その研究成果をまとめた本がいくつか図書館にあったので、もちろん拝読済みだ。
「うん、そうなんだ。幸い魔族は菌類に感染しないからね、この身を盾にして研究しているよ。セーナ君が元居た世界の菌と同じなのかどうかは分からないけど、興味があったら今度病院の実験室に見に来るといいよ」
「ぜひお邪魔したいですっ!」
ふふふ、と笑い合う。彼とこういう他愛もない話ができるなんて、本当に今は平和な世の中になったのねと実感する。疫病最盛期のときはピリピリと緊張感しかなかったから、無駄話できる雰囲気じゃなかったしね。
そんなことを考えて感慨にふけっていると、ロシナアムの呆れた声が飛んできた。
「お2人とも感動の再会は終わりましたの? もう宜しいのでしたらさっそく見学に参りますわよ」
「やあ、ロシナアム。挨拶が遅れてすまない。元気にしてた?」
「……おかげさまで、この通りですわ。その節はお世話になりましたわね」
にこにこと笑うドクターフラバスに、照れくさそうに答えるロシナアム。
いつも冷静沈着でドライなロシナアムの珍しい表情に、おやこれはと思う。
「えっ、2人は知り合いだったの?」
「はい。わたくしの実家は
そうか、ロシナアムは貴族で、確かお家は侯爵家だった。領地が隣同士であれば、確かに交流があってもおかしくない。
でも――なんとなくだけれど、彼女の表情には、単なる昔馴染みに会ったというもの以外の感情が浮かんでいるように見えた。
そう思って首をかしげるけれど、私は人の感情に鈍いところがある。だから勘違いかもしれないし、かと言って聞くのもおかしいだろう。
私の気持ちを知ってか知らずか、ロシナアムが明るい声を上げる。
「では、さっそく見学に参りましょう」
「うん、行こうか」
――まあいいか。今は研究所の見学に集中しよう。
私は心も足取りも軽く、ロシナアムの先導に続くのであった。
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