第62話

数年が経った。

 肝臓と腎臓がかなり損傷していて長くはないと思われた命だけど、結構ねばっている。


 私は入院と退院を繰り返しながら、調子が安定しているときは研究所に出勤して実験をしていた。XXX-969が他の病気にも効果がないかどうか調べるために、スクリーニング系を構築するのが与えられた課題だった。


 研究をしていると体調のことを忘れられた。やはり私はこの仕事が大好きなのだなあと、改めて感じた。しかし以前のように午前様なんてことはもうしない。無理をするとすぐ検査値が悪くなるので、きっかり定時で帰るようになった。


 ――そういえば、私がフィラメンタスに感染して倒れたということは包み隠さず公にされた。


 市中感染ではなく研究用の菌由来であるとはいえ、日本で初めての感染者だ。ワイドショーは連日のように話題に取り上げた。病院にも取材陣が殺到し、病院関係者や会社は対応に追われた。私自身はICUから動けなかったため何もできず、ほんとうに申し訳なかった。


 ただ、私が新薬の開発者であったということで批判がある程度相殺されたのは幸運だった。私の感染とは関係なく、ほどなくフィラメンタスは国内で流行を始めたからだ。どうやら無症状の感染者が空港の検疫をすり抜けたようだとニュースでやっていた。


 XXX-969は特例で優先的に治験が進められて、ヒトに対してその有用性が確認された。異例の速さで厚生労働省の承認がおりて発売となり、飛ぶように売れた。


 発売日には社長のトムさんが病室にシャンパンを持って現れた。

 トムさんはかつて毒ガスや生物兵器なんかを開発していた凄腕研究者で、戦争が終わってから製薬業界に引き抜かれたという異色の経歴を持っている。入社式で一度見かけたぐらいだけど、XXX-969が、――発売名『トロピカ』、成分名『セナマイシン』だが――――莫大な売上が確定しているらしく、わざわざお祝いに来てくれたみたいだった。開発者の私にちなんでセナマイシンは分かるけど、トロピカっていう会社上層部のセンスはどうなんだろうと思った。


 その夜社長、研究所長、姉、私というメンバーで、ささやかな宴会をすることになった。私は肝臓をやられているから飲めないけれど、形だけでもとグラスに注いでもらい、乾杯した。


 売上げが好調なためかトムさんは上機嫌で、酒の進みが早い。

 会社に貢献できたことは、素直に私も嬉しく思う。製薬業界も慈善事業ではない。売上があるからこそ、新しい薬の研究費用がまかなえるのだ。


 ――――私はこんな体になってしまったけれど、XXX-969私が作った薬は世界中でたくさんの命を救うだろう。もう死んでも後悔はない。――――いや、欲を言えばまだまだ研究したかったけれど、この体ではなかなか思うように仕事ができない。体調が悪いもどかしさとチームに迷惑をかけている申し訳なさでいっぱいだ。

 世の中にはたくさんの研究者がいるけど、新薬を見出すことができる者はほんの一握りしかいない。27歳で世に出せた私は相当運がいい。というか、多分そこで運を使い切ったんだと思う。


 死への恐怖は不思議とあまり無い。例の紙切れ、そこに書いてあったことがずっと心に引っかかっている。死んだ後も私には何か面白いことが待っていそうな気がしているのだ。だから、もういいかな。なんて夢見る乙女のようなことを考えたりもする。


 ――久しぶりすぎる宴会はとても楽しかった。消灯時間を過ぎてしまったのだけど、私が新薬の開発者だという事情を知っている師長さんが「個室だから、今日は目をつむってあげる」と見逃してくれた。

 酔ったトムさんが姉を口説き始めたり、所長が椅子に躓いて床に柿ピーをぶちまけたりとハプニングもあったけれど。3人がワイワイガヤガヤしているのを見ているだけで、ほっこりした気持ちになった。


 それは、人生最後の宴会になった。

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