第55話

それからの1週間は、特に何事もなく経過した。

 私は引き続きゾフィー東部病院で寝泊まりし、診療の手伝いをしたりデル様専用漢方薬のストックを作ったりして過ごした。私が元の世界に戻った後は、ドクターフラバスが調剤を引き継ぐことになっている。

 デル様は拠点を王城に戻し、門の準備をしてくれているようだった。


 仕事の合間に、サルシナさんとライ、アピスのマスターに手紙をしたためた。挨拶もできずに居なくなって申し訳ない、元いた場所に戻ることになった、これまでお世話になった、という感謝を書き綴った。各地の郵便ギルドが正常に機能しているかどうか分からないため、みんながこれを読む頃には、私はもうこの世界にいないのかもしれない。そう思うと、目頭が熱くなる感じがした。


 そうこうしているうちに、「明日には門が使えそうだ」とデル様から連絡が入った。

 万が一にでも寝坊してはいけないので、前夜のうちに王城へ前乗りすることにした。



「お久しぶりです、デル様。ご体調は大丈夫ですか?」

「ああ、おかげで問題ない。――いよいよ明日だな。門に関して説明したいことがあるから、夕食後に時間をもらえるか?」

「はい、もちろん大丈夫です。お手数おかけしてすみません」


 あの日屋上で涙を流しきった私は、少しだけさっぱりした気持ちになれていた。モヤモヤが全てなくなったわけではないけれど、こうしてデル様の目を見て普通に話せるくらいには、気持ちが落ち着いてる。きっと明日も、特に問題なくやれると思う。


 デル様は忙しいらしく、「まだやることがあってな。すまない」と言いながら侍従さんに私の案内を頼み、部屋を出てどこかへ行ってしまった。


 折り目正しい侍従さんについて重厚な廊下を結構な時間歩くと、1人用には広すぎる豪華な部屋に通された。


(日本で住んでいたワンルームマンションの10倍くらいあるけれど?)


 床にはふわふわの絨毯が敷き詰められ、壁紙はベージュ地に金色の小花柄。女性が好みそうな家具が並び、ほのかに良い匂いが漂っている。――明らかに、高貴なお客様をおもてなしするようなゲストルームだ。こんなお部屋、私ごときが使っていいのだろうか。

 おろおろしている私を見た侍従さんは「専属薬師様ですから、上等な部屋にお通しするよう陛下から申し付かっております」と、うやうやしく頭を下げた。

 別の部屋にしてほしい、と頼むのもそれはそれで我儘なような気がしたので、ありがたく使わせてもらうことにした。

 

 侍従さんが退室して、1人部屋に取り残される。

 することがないので、ぽつんとソファに腰かけて、調度品を眺めまわす。


 夕食はご一緒できるのかなと少し期待したけれど、部屋に1人分の食事が運ばれてきたので粛々といただいた。

 ずっと給仕さんが傍に居たので少し気まずかった。


 食後のお茶を飲んでいると、コンコンと控えめなノックが聞こえたのでカップを置く。

 どうぞ、と声を掛けるとデル様が入ってきた。王様なのにきちんとノックするところとか、本当に紳士だなあと思う。すぐに立ち上がって、一礼する。


「ああ、座ってくれ。早速だが、明日セーナは門を通して元の世界に戻るわけだ」


 彼は長い脚ですたすたとこちらに近づいてくる。机を挟んで私の対面のソファに着席し、さっそく口を開いた。


「はい」

「それで、以前にも話したと思うが、門の通過には代償が必要だ。――そなたと出会ったばかりの頃にした話だから、もう覚えていないかもしれないが。その話で来たのだ」

「あっ、すっかり忘れていました。そうでしたね、代償。門を使って行き来する場合に必要だとおっしゃっていましたね。なんでしょう、通行料でしょうか?」


 私としたことが、本当にすっかり忘れていた。門というからにはお金を支払って通行する感じだろうか。お金、馬車代に使ってしまってあんまり無いけど足りるだろうか……? ここにきて金欠で支払いができませんというのは、さすがにまずい。冷や汗をかきながら、財布とへそくり貯金の中身を思い出す。


「いいや、金ではない。代償は送る者と送られる者双方に発生する。つまりセーナと、門を開く私ということだ。それで、セーナに発生するのは記憶の喪失だ」

「きっ、記憶の喪失、ですか?」

「そうだ。具体的に言うと、ブラストマイセスでの記憶が消えるという事だ。この世界の機密事項を持ち出されないように、太古の昔に門の創造主が取り決めたことだ。夢を見ても起きたら忘れているように、そういう感じで元の世界と時がつながるらしい」


 デル様は業務連絡をするように、淡々と話を続ける。こわばった無表情をしており、じっと見つめてみてもそこから何らかの感情を読み取ることはできなかった。最近は笑いかけてくれることも多かっただけに、出会った当初のような対応に寂しさを感じる。

 でも、そう思う資格が私に無いことは分かっている。


(記憶が無くなるというのは予想外ね。どうしようかしら……?)


「私、全てを忘れてしまうのですか? 一生、何があっても思い出せないんですか?」

「……そうだな。生きている間に思い出すことはないだろう」


 ――彼の強大な魔力を持って記憶を奪うので、きれいさっぱり忘れてしまうらしい。


「ブラストマイセスでの出来事を忘れてしまうのは、すごく悲しいです……」


 心の底からそう思えば、無意識に項垂れていた。涙目で机の一点を見つめていると、これまでの生活が頭に浮かんでくる。…………毒キノコにあたった女の子、親切にしてくれたライ、サルシナさん。調合と畑仕事、スープ作りで平和だった毎日。そして、強くて優しい魔王様、初めて好きになった人――


「……私もだ、セーナ」


 ハッと頭を上げると、デル様が真っ直ぐこちらを見ていた。

 さきほどの無表情とは一変して、明らかに悲しい表情をしていた。麗しい眉を下げ、もうほとんど涙をこぼしそうなくらい、顔が歪んでいた。


 歪んでいても、美しさが損なわれるということは無かった。むしろ、作り物のような顔に俗世っぽい表情が生まれることにより、相手の心を深く揺さぶるような、暴力的なまでの美しさをもたらしていた。初めて見るその表情に、思わず目が離せなくなる。


「そなたが私にしてくれたこと、その全てに感謝している。体調のことだけではなく、些細な会話や、過ごした時間の全てにだ。そなたのおかげで久しぶりにとても温かい時間を過ごせた。――私は決して忘れない」

「……っ、」


 返せる言葉が何もない。

 今の私は膝の上でぎゅっとこぶしを握ってうつむくことしかできないのだ。


「あちらの世界でも健勝で過ごすように。そなたが幸せな人生を送れることを、心から願っている」


 そう言って、デル様は微笑んだ。

 その寂しげな笑みを見て、私は思わず泣きそうになった。慌てて下を向き直し、ぐっと瞼に力を入れる。


「ありがとうございます」「デル様もお元気で」――そんな言葉すら、返していいのかどうか分からなかった。 

 今更何か彼に言えることがあるだろうか。本当は帰りたくない、私もデル様が好きですと言えたらどんなに幸せだろうか。


 だけど、それは許されない。ここに残っても待つのは破滅の運命だ。

 私の恋愛感情によって、大勢の人間が疫病で亡くなるかもしれない。それはだめだ。私は私の使命を全うしないといけない。

 

 湧き上がるさまざまな感情を押し殺し、私は話題を転換した。

 

「……私の代償については理解しました。では、デル様側の代償とは何なのでしょう?」

「それは知らなくてよい。セーナに比べたら大したことないものだからな」

「えっ!? ますます気になります!」


 すごく気になるので何回か聞いてみるも、彼は頑として答えてくれなかった。教えてくれないと暴れますよ、と脅してみたが、「それはむしろ見てみたいな」と軽く笑っただけだった。

 ちょっとした茶番だったが、彼の悲しそうな顔が引っ込んで笑ってくれたことに私は少しだけ安堵した。

 デル様はもう今日の予定はないそうなので、最後の「話し相手」をお願いした。これは私の我儘だ。少しでも彼と一緒にいたかった。そんなこと言える立場じゃないのは重々わかっていても、でもやっぱり、一緒に過ごしたかった。


 出会った頃からの思い出話などをして、しみじみしたり、笑い合ったりして、帰還前夜の夜は更けて行った――――。



 ――――翌昼、王城の中庭にて。私はデル様が発現させた巨大な魔法陣の上に立っていた。


(門っていうから何かの建造物かと思ったけど。魔法陣なのね)


 半径50mはあるだろうか。丸や四角の幾何学的な模様の中に、びっちりと文字のようなものが描き込まれた、芸術品のような魔法陣。素人目にも、これは準備に時間がかかるわねと納得してしまうものだった。黒く怪しく光る魔法陣は、私の足元で僅かにゆらゆらとうごめいている。


 昨夜デル様が自室に戻った後、いろいろ思い悩んでいたらいつの間にか窓の外が明るくなっていた。

 割り切れていたはずのもやもやが、また心の中でくすぶり始めていた。

 でも、どんなに思い悩もうが、元の世界に戻るという決意自体が変わるわけではない。単に気持ちの問題ではあるのだけれど――それがどうにも私を苦しませていた。


 はぁ、とため息をついて空を見上げる。今日は気持ちのいい夏晴れだ。


(あ、ちょっと遠くに虹が見える……)


 王城の西の方、山脈が連なるあたりに、大きな虹が見える。晴れているのに虹とは珍しい。あちらの方では雨でも降っていたのだろうか?

 そんなことを寝不足の頭でぼんやり考えていると、気遣わしげな美声で呼び掛けられる。


「セーナ、用意はいいか?」


 私の隣に立つデル様が声をかけた。


「あっ、はい。いつでも大丈夫です……」


 魔族の高官と思しき人物たちが遠巻きに見守る中、それは発動された。

 デル様が朗々と呪文のようなものを唱え始めると当時に、足元から目を細めるほどのまばゆい光が立ち上る。黒い魔法陣が金色へと変化したのが分かった。


「通行証だ」


 そう言ってデル様は私のおでこに一つ口づけを落とした。サラリとした艶やかな黒髪と、落ち着く良い香りが私を包み、そしてすぐに離れる。


 途端に勢いを増した光があっという間に私を包み込み、視界を奪い始める。


「あ、デル様――――」


 だんだん金色に霞んでいく視界のなか、彼に一言告げようと口を開く。


 でも、なぜだか言葉が上手く出てこない。何を話したらよいのか、ここはどこなのか、段々分からなくなっていく。頭の先が何かに引っ張られ、そこから自分の中身が流れ出していくような感覚がある。

 彼に何かを告げようと開いた口は目的を見失って、やがて自然と閉じられた。


 金色の光にのみこまれながら最後に見えたのは、とても寂しそうな表情をした――けれどとても凛々しく美しい男の人だった。

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