第46話

ゾフィー東部病院の使われていない古い実験室で、検証実験は行われることになった。

 ほこりをかぶっていた実験器具や医療器具を引っ張り出し、どうにか整えた場だ。


「今からアピス、オムニバラン、ゾフィーを襲っている疫病に抗生物質が効くかどうか、実験を行います。効けば一般的な感染症。効かなければ、フィラメンタスという新しい菌による感染症ということになります。みなさん、よろしくお願いします」


 医療ドラマさながらの光景である。

 目の前にいるドクターフラバスと、助手のナースの表情は真剣そのものだ。しっかりと白衣を着用し、口元は巾で覆う。手はしっかりと酒精で消毒して、実験に臨む。


 今から行う実験は2ステップだ。

 ステップ1、青かびから「ペニシリン」という抗生剤を精製する。

 ステップ2、ペニシリンと患者からとった膿を一緒に培養する。

 

 空気中に漂う雑菌が混入しないようにするため、いくつかのアルコールランプに火をつけて、そのすぐ近くで作業を開始する。使用する器具は、すべて事前に煮沸あるいは酒精で消毒済のものだ。


 まず、青かびの生えた柑橘を手に取る。これは、病院近くの青果店からもらってきたものだ。

 綿棒で、柑橘を覆っている青かびを擦り取る。

 それを、三角フラスコに用意しておいた芋の煮汁に撹拌し、綿で栓をする。

 これを、翌朝まで振盪培養する。本来ならカビが十分に増えるまで何日間か培養するが、今回は時間がないのと実験用に少量精製できればよいので、一晩でも大丈夫だろう。



 翌朝青かびの培養液を確認すると、昨日よりとろみが増しており、ダマのようになっている部分もあった。うん、いい感じだ。


「とろみが増しているので、カビが増えていると思われます」

「そう、よかった。まずはある程度カビが増えないといけない、そうだったね?」

「ええ、その通りです。カビがペニシリンを作るので、カビが増えないことには量が取れないのです。さっそくペニシリンの精製に入りましょう!」


 ドクターフラバスとナースに補助してもらいながら、ろ紙を使って培養液を濾していく。ろ紙に残った残渣をガラス棒で圧迫し、しっかり液体成分を回収する。


「このろ液に抗生剤――ペニシリンが含まれています。今はそれ以外の雑多な成分と混じっている状態なので、ペニシリンだけを取り出す作業に入ります」


 そう伝えると、2人はしっかりと頷いた。

 アルコールランプをいくつもたいている上、白衣や巾を装備しているため、結構暑い。じわりと額に汗が浮かぶ。


 ろ液に等量の油を加えて、ガラス棒でよくかき混ぜる。

 目的成分のペニシリンは水に溶けるため、油と分離した水の層だけを、慎重にスポイトで回収する。これでもまだ雑多な成分が混じっているため、作業は続く。


 砕いた炭を溶液に加えて、ガラス棒でかき混ぜる。

 ペニシリンは炭に吸着する性質があるため、ほどよいところで炭のみを回収する。

 炭を何回か清潔な水で洗浄したのち、酢でも洗浄を行った。ツンと鼻を突く匂いが室内に充満する。


「酢で洗うことにより、炭に付着しているアルカリ性の夾雑物が流されます。ペニシリンは酸性物質なので、炭に残ったままになります」


 酸とかアルカリとか、この世界にそういう概念があるのか分からないが、気にしないことにした。この実験は異国の医学書で読んだということになっているので、本にそう書いてあったのですよという顔で進めていく。


 ドクターフラバスとナースは必要最小限しか声を出さず、神妙な顔つきで着いてきてくれている。口を挟むと邪魔になるのを心得ているのだろうか。終わったら質問攻めに合いそうな予感がする。


「最後に、この炭に重曹を溶かした水を注ぎ、再度ろ過します。その溶液にペニシリンが分離されているはずです」


 ドクターフラバスに重曹水を注いでもらい、私は別の容器にそれを受ける。

 無事にペニシリン溶液を得ることができ、ホッとした。あと一息だ。

 額に滲んだ汗を、ハンカチでぬぐう。そして、最後の指示をナースに依頼する。


「では、患者の湿疹部から採取した膿を持ってきてください」

「わかりました」


 ナースが試料を持って来る間に、昨日仕込んでおいた寒天培地を取り出す。寒天の粉を煮沸した水に溶いて作ったもので、麦の煮汁や野菜エキスなんかも入っている。このエキスは、菌が生育するための栄養分となる。


 小さな匙をアルコールランプで炙って殺菌したのち、培地に押し付けて冷ます。膿をとり、ぎざぎざ状に培地全体にこすり付ける。

 培地の左半分にペニシリン溶液を数滴たらせばOKだ。

 念のため同じもの3プレート作り、37℃の恒温器に入れる。ここで数日間培養だ。


「――はい、これで一通りの作業は終わりです。数日培養して、阻止円ができれば抗生剤が有効ということになりますね」

「セーナ君、阻止円とはなんだい?」

「あっ、すみません。ええと、つまり、今培地に塗った膿には、疫病菌が入っているわけです。それとペニシリンが戦うことになるわけですね。ペニシリンが効けば、そこには疫病菌が生えず、丸く抜けたような円ができます。これを阻止円と言います。逆にペニシリンが負ければ――培地一面に疫病菌が生えるわけです。阻止円はできません。――と、異国の医学書には書いてありました」


「なるほど。ありがとう、理解したよ。いやあ、異国の医学は発展しているんだね。見たこともない手技だった!」


 感嘆の息を漏らすドクターフラバス。ナースも、隣でうんうんと頷いている。


「い、いやあ、本当にすごいですよね、抗生剤を見つけた人は。――じゃあ、これにて実験は終了です。まずは1日経ったところで培地を確認してみましょうか。あまり頻繁に覗くのは良くないと書いてありましたので。お2人とも、お疲れ様でした」


 手伝ってくれた2人にお礼を言う。

 ナースは一礼したのち、病人の看護へと慌ただしく戻って行った。ドクターフラバスは片づけを手伝ってくれるとのことで、恐れ多いと思いながらも、お言葉に甘えることにした。


「いや~、実験が滞りなく終わってよかったよ。あとは待つだけか。セーナ君、本当にありがとう。抗生剤が効くといいんだけれど」


 器具を洗いながら、ドクターフラバスが弾んだ声で言う。

 私も隣で使った溶液を流しながら、それに応じる。


「いえ、こういう作業は好きなので、楽しくやらせてもらいました。本当に、効くと良いんですけどね……」

「結果が楽しみだな。ほんと、患者を前にして何もできないっていうのが一番つらかったんだ」

「……そうですよね。自分の無力さを思い知るというか、不甲斐ない気持ちになりますよね」


 排水溝に流れていく溶液を目で追いながら、お母さんが乳がんになったときのことを思い出していた。

 あの時の私は中学生で、お母さんが病気になっても、何も抗うすべを持たなかった。お母さんはショックだっただろうに、そういったそぶりを一切見せず、私とお姉ちゃんを安心させるように振る舞っていた。それがまた悔しくて、自分は子どもなんだと、庇護される対象なんだと思い知った。

 だから私は薬剤師になり、そして製薬会社の研究者になり、病気に抗うすべを身に付けた。

 

 時代や世界が変わっても、病気はなくならない。1つ薬ができても、また未知の病気が流行りだし、まるで追いかけっこのようだと思う。そのことを、この世界に来てから――旅が始まってから、ひしひしと感じている。日本に比べて技術が足りない、遅れているこの世界で、私は病気に立ち向かっていけるだろうか?


「――セーナ君、大丈夫かい? 随分険しい表情をしているけれど……」

「あっ、すみません! 大丈夫です。ちょっと旅の疲れが出たのかな? あはは……」


 平和だったトロピカリでの生活と今の殺伐とした状況を比べて、少々弱気になっていたようだ。

 

(私が弱気になってどうするのよ! できるできないではなく、やるのよセーナ。常に全力で、できるまでやる。それが私のポリシーだったじゃない!)


 自分を奮い立たせ、笑顔を作ってドクターフラバスに返事をする。

 そう、私はそうやって生きてきた。自分はできる、やれるのだと言い聞かせて。たくさんの実験をこなし、緻密な理論を立てて、正解に辿りついてきた。技術うんぬんではないその精神は、この世界でだって通用するはずだ。


「阻止円ができれば、あとは国王様にペニシリンの大量合成をお願いすればいいので。そうしたら、疫病は解決するはずです。もう一息ですから、多少の疲れは平気です!」

「そう? とりあえず、今日はもう休んだほうがいい。食事は宿でとれるように手配しておくから」


 ドクターフラバスはまだ心配そうな顔をしていて、私の顔を覗き込んでいる。


「すみません、ありがとうございます。お言葉に甘えて、今日はゆっくり休養させてもらいます」


 旅の疲れは実際のところほとんどないのだけれど、疫病についてゆっくり考える時間はほしかった。ペニシリンが効くようであれば、錠剤がいいのか粉薬がいいのかなど、考えることは多い。

 片づけを終えて実験室を後にした私の頭の中は、希望的観測でいっぱいになっていた。


 しかし――――その日から3日間培地を観察していたが、3人が阻止円を見ることはなかった。


【後書き】

☆ペニシリンとは☆

1929年、フレミングによって発見された世界初の抗生物質。

フレミングはこの功績によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。

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