第29話

全ての予定を無事に消化した私は、鼻歌交じりで帰り道を歩いていた。


 虹コンベアで訳も分からず運ばれた往路よりも、地面を一歩一歩踏みしめながら進む復路のほうが気楽だなんて、彼には言えないけれど。だんだんと蒼に落ちていく茜空の切ない感じ、鳥たちが巣へ帰っていく様、レンガ道に伸びる自分の影。この時間を彩る全ての要素が、私は好きだ。


(……今日は家でデル様が待ってくれているのね。誰かが居る家に帰るなんて、いつぶりだろう?)


 1人暮らしだった研究員時代も含めると、4、5年ぶりかもしれない。ろくに実家に帰らない親不孝娘だったな、と胸がチクリと痛む。もし元の世界に戻れたらまずは家族に会いに行きたい。女手一つで私を育ててくれたお母さんと、可愛がってくれたおねえちゃん。2人とも元気にしているだろうか?


(自分を待ってくれる人とか、気にかけてくれる人っていうのは貴重な存在ね。こっちの世界に来てしまったからこそ気づけたことだわ)


 ……そういえば、こちらに来てから日本の家族についてきちんと考えたのは、今が初めてかもしれない。

 なんだかんだ、薬師業と生き物の解剖で日々充実してしまっている。うーん、我ながら薄情者だ。


 ここの暮らしは悪くない。27年生きた日本と違って、日々大なり小なり新しい発見がある。まだまだ未知なところも多くて、生きていてすごく楽しい。

 先日はうっかりデル様の添い寝で泣いてしまったけれど、翌日にはとてもスッキリしていたし。知的好奇心が満たされる毎日は、とても充実感がある。


(――デル様は執務で疲れているかしら? そういえば、朝薬を渡し忘れてしまったわ。帰ったらまず渡さなきゃね)


 あれこれ考えているうちに我が家が見えてきた。部屋に灯りがともっているのが目に入り、嬉しくなる。


「ただいま帰りました!」

「おかえり、セーナ」


 勢いよくドアを開けると、到着が分かっていたかのように、麗しの魔王様が出迎えてくれた。目を細めて爽やかに微笑む彼は、魔王という禍々しい肩書を疑ってしまうぐらいのジェントルマンだ。

 デル様は紳士的な動作で、私が背負っている籠を下ろしてくれた。


「用事は滞りなく済んだのか?」

「はい、おかげさまで。無事に総合商店に卸せるようになりました。デル様こそ1日こんな家に居て大丈夫でしたか? お仕事できましたか?」

「ああ、心配ない。ここはのんびりできるから気に入った」

「そうですか、それは良かったです。今からスープを作りますから、よかったら夕飯食べていかれます? あ、その前にお薬……!」


 また忘れるところだった。

 慌ただしく調合室に飛び込み、先日作っておいた人参養栄湯と黄連解毒湯を袋詰めしたものを持ってくる。

 デル様に椅子を勧め、なぜこの処方を選んだのか、どういう時に飲むのか、ということを説明する。


「―――では、毎日飲むものがニンジンヨウエイトウ、急変時に飲むものがオウレンゲドクトウということだな。これで3か月様子を見て、効果がいまいちであれば別の薬に切り替える、と」

「おっしゃる通りです。デル様は魔王という特殊なお身体ですので、今回は人間に投与する倍の濃度でお作りしています。万が一飲んでみて嫌な感じがしましたら、ぬるい湯で半分に薄めて飲んでください」

「わかった。そなたの言うとおりに飲んでみよう。早速の働きに礼を言う、セーナ。――代金はいかほどか?」

「材料費、調合費含め、3カ月分で3000パル頂戴いたします」


 単発的な調合であればこんなに掛からないのだけれど、大量生産に伴う素材調達が大変なので、その手間賃を上乗せさせてもらっている。心苦しいが、魔王様であれば払えないことはないだろう。


「なんだ、随分と安いな。では専属の上乗せを含め5000払おう」


 彼はそう言うと腰元の袋から無造作に硬貨を掴み取り、その中から5000パル――銀貨5枚を机に並べた。


(5000パルだなんて、庶民の約半年分の食費だけど!?)


「でっ、デル様は随分と気前が良すぎます! 私、お金は必要十分なだけあればそれでいいのです。幸い、薬師業と卸売りが順調なので、生活するのには困ってないですから。こんな女性1人暮らしでお金をいっぱい持っていて、物騒なことに巻き込まれるのも嫌なんです」


 机に並んだ銀貨5枚の中から3枚だけ頂戴し、財布にしまった。

 その様子をデル様はじっと見つめていたけど、無理にお金を押し付けることはなく、残った2枚を元の袋に戻した。


「セーナは本当に無欲なのだな……。しかし、もし万一困るようなことがあったら遠慮なく言うのだぞ。そなたがこの世界に来たのは私の責任なのだから、不自由することがあってはならない。――ではセーナ、今日はここで失礼する。せっかくスープのお誘いだが、それはまた今度楽しみにしている」


 彼はゆっくりと立ち上がり、天鵞絨のような黒髪がサラリと揺れた。


「お心遣いに感謝いたします。お気を付けてお帰りください」


 一礼すると同時にパチンと音が鳴り響き、視界が轟音を立てるつむじ風でいっぱいになる。

 しばらくして顔を上げると、ガランとしたいつもの部屋があるだけだった。

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