第26話
(愛称で呼びたいなんて、無礼もいいところだったわっ!)
おでこを芝生につけながら、軽率な行動に唇を噛む。
魔王様を愛称で呼ぶなんて、そんなこと許されるわけがない。
どうして私はこんな愚かな考えをしてしまったのだろう。「友人」という約束に浮かれているのは、私の方ではないか!
――罰を受けることになるのだろうか。心臓がうるさいぐらいに高鳴っている。
厳しい言葉をかけられることを覚悟したものの、彼の口から出たのは意外な言葉だった。
「わ、わかった」
「……はい?」
何が分かったのか、分からなかった。
顔を上げていいのかも分からなかったので、長い前髪をかき分けて、無理くり視線だけ彼の方にやる。
――デルさんは、両手で顔を覆っていた。
「で、デルマティティディス様? どうされましたか?」
デルさんの顔は小さく、手は大きい。顔がすっぽりと隠れていて、表情がちっとも見えない。
なぜ彼は顔を隠しているのだろうか。……もしかして、私は見るに堪えないくらい嫌われてしまったんだろうか?
「いや……何でもない。あまりこちらを見ないでくれ。本当に、参ったな。私はいったいどうしたらいいんだ……?」
指の隙間からぼそぼそと呟くデルさん。
さっぱり状況が掴めないけれど、見るなと言われたので再び芝生におでこを付ける。
「……あ、いや、すまない。顔を上げてくれ。そんなことをする必要はない」
「いえ、すみません。軽率な発言でご気分を害されたかと思うので、謝罪するのは当然で――」
「私は怒ってなどいない。少し――そう、少しだけ驚いただけだ。ほら、地面は冷えるから立ちなさい」
(怒らせてしまったわけではなかったか)
大きく息を吐いた。
彼の指示に従って、土下座を止めて立ち上がる。スカートについた芝生を払って、身なりを整える。
彼は顔を覆うのを止めて、私の様子を見ていた。その表情はどこか緩んでいて、ああ照れ臭かったのかとピンときた。
予想外の事を言われて面食らっただけだと分かれば、私の心拍数もどんどん落ち着いていく。
「その……つまりだ。あ、あい……愛称だったか? 悪くない。そなたの提案を受け入れよう」
デルさんは腰にはいた剣の柄をいじりながら、チラッと私を見た。
その様子が何とも微笑ましくて、自然と笑みがこぼれる。
「ありがとうございます! ……早速ですけれども、何とお呼びしたらよろしいでしょうか?」
「わ、わからん。そのようなことを言われるのは初めてだからな……。セーナが適当に考えてくれ」
魔王様相手に、適当に考えるわけがない。
提案する以上、一応こちらとしても案は考えてあった。
「かしこまりました。……では、お名前の頭文字を取って、デル様でいかがでしょうか?」
「……っ!」
デルさんは、誰かに膝カックンされたかのように、崩れ落ちてしまった。
「えっ!? だ、大丈夫ですか!?」
芝生にうずくまり、肩を震わせるデルさん。ぶつぶつと何かつぶやいているけれど、よく聞こえない。
(鍛えてらっしゃるようだから、足腰が弱いは思えないけれど……?)
もしかして、矢毒は関節にも作用しているのだろうか?
新薬開発の必要性を考えながら彼をじっと観察していると、琥珀色の角がほんのり赤みがかっていることに気がついた。
また全身状態が悪くなってきたのだろうか? 慌てて傍に駆け寄る。
「デルマティティディス様、どうしたんですか? ……んんっ? なにこれ!?」
うずくまる彼の周りに、花畑ができていた。
比喩ではなく現実に。ポンポンと綺麗な花がいくつもいくつも咲き、小さな花畑のようになっていた。
(こんなお花咲いてなかったと思うけど……)
なんだろうこの現象は?
こんな早さで植物が育ち、開花するなんて非科学的だ。ってことは、また魔法のようなものなんだろうか……?
様子のおかしいデルさんに、突然できた花畑。
この2つが全く結びつかなくて、首をひねる。
「――セーナ、私は大丈夫だ」
コホンとひとつ咳をしてデルさんは立ち上がる。
大丈夫と言いつつも、角の赤みはまだ継続している。本当に平気なのかしら? とジロジロ眺めていると、彼は足元の綺麗なお花をいくつか摘み取った。
パチン!
何回か聞いたことのある音が鳴り響く。
竜巻が来ると思って反射的に目を閉じるけれど、待ってもその気配は無い。
恐る恐る目を開くと、デルさんが跪いて可愛らしいブーケを差し出していた。
色とりどりのお花が、青いリボンできっちりまとめられている。
(えっ、どういうこと?)
どう見ても、私に向かって差し出されているように見える。でも、貰えるような心当たりがない。
もしかして、私の背後に誰かがいて、その人に差し出しているのだろうかと思い当たる。急いで振り向くけれど、きらきらと水面が輝く湖があるだけだ。
さっきから、状況の理解が追いつかない。
困惑して固まっていると、デルさんがゆっくりと口を開いた。
「私の良き友人にこの花束を。……受け取ってもらえるだろうか……?」
「わ、私に? しかし、頂けるようなことをしていません」
そう答えると、デルさんは困ったように頬をかいた。
「理由がないと、だめか? ……私はそなたと一緒にいると、感じたことのないような心地よい気分になれる。強いて言うのであれば、そのお礼だ」
驚いて彼の顔を見つめると、それは美しい天女の笑みが返ってきた。
……魔王様なのに天女とは可笑しいかもしれないけれど、やはり天女のように見えた。この世のものとは思えない、性別を超えた人外の美しさ。
『魔』というのが似つかわしくないほどに、見た目も心も清廉で、高潔で、慈しみに溢れた存在。
―――それが私にとっての彼なのだという想いが、どこからともなく湧き出てくる。
「……はい。デル様、ありがとうございます」
私は晴れやかにそう言って破顔した。
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