余命一年、彼女はニセモノの恋に恋をする

@yozorahosi

Episode 1

第1話

 四月の京都駅の新幹線ホームには、早春の訪れを告げる、かすかな陽射しが差し込んでいた。空気にはまだ冷たさが残り指先がかじかむ。ホームを歩く人々の足元には、時折冷たい風が吹き抜けた。

 東京都方面行きのホームでは、最初の自動ドアが設置されたばかりで、近日中には全ての工事が完了する予定だ。

 一方、九州方面行きの新幹線を待つ列は、ずいぶんと静かだった。厚手のコートに身を包み、じっと待ちながらも空に目をやることはない。澄み切ったゼニスブルーの空が広がっていたが、彼らの関心はスマホの画面に集中していた。イヤホンをつけて音楽か何かを聴きながら、黙々とその小さなスクリーンを見つめる。

 ホームで立ち尽くす、場違いな女子高生に疑問も持たず。

 くすんだローファーを履き、この季節に生足をさらしていた。スマホすら持たず突っ立っている。空っぽの手は力なく垂れ下がっていた。長い髪が風に揺れて顔にかかっても、その髪を押さえることすらしない。ずっと下を向いたまま、まるでその場に縛られたかのように立ち尽くしている。

「まもなく下り列車が通過します。危ないですので黄色い点字ブロックの内側まで下がってお待ちください」

 遠くから響くアナウンスと警告音がホームに鳴り響く。その瞬間、彼女の肩がかすかにビクッと震える。何かに反応したように目をきつく閉じ、彼女はゆっくりと深呼吸をした。

 しかし、その呼吸は乱れていた。

 浅い息を繰り返し、意を決したように右足を一歩踏み出す。その歩幅は驚くほど小さく、足は生まれたばかりの子鹿のように震えている。膝は硬直し、関節は曲がらず、力だけが無駄にこもっていた。

 鉛のように重い足を引きずりながら、ついに点字ブロックの外へと踏み出した。

 だが、誰もその瞬間に気づくことはなかった。自分の世界に閉じこもり、ゴシップニュースやショート動画、暇つぶしのゲームにしか意識が向かない。周囲の出来事には無関心 だった。小さな震えも、彼女の意を決したその一歩も、誰にも届かなかった。

 彼女ははふいに思い出した。

 トイレの隅で、冷たい水がホースから勢いよく浴びせられた日のことを。

「ねえ、なんであんた、平気な顔して生きてんの?自分が社会のゴミだって自覚してる?あんたみたいな寄生虫がいるから、私たちが苦労してんのよ。さっさと死んでくれない? 死んだって、誰も悲しまないから。むしろみんな、あんたがいなくなってほっとするよ。寄生虫が一匹減ったって」

 その言葉が、刃物のように胸を貫いた。鼓膜に焼き付いて離れなかった。

 あの時、彼女は何も言い返すことができなかった。ただ、無力感に押しつぶされ、されるがまま、それを受け入れた。

 そして今、ホームに立つ彼女の脳裏に、その記憶が鮮明に蘇った。

 そうだ、私は誰からも必要とされない。あの子たちの言う通り、生きる価値なんてない社会のゴミ。誰にも迷惑をかけるだけの、寄生虫なんだ……。

 顔を上げた瞬間、彼女の目元から一筋の涙がこぼれ落ちる。まるで、内側に溜まっていたすべての感情を吐き出すかのように溢れる。

 不思議なことに、さっきまで鉛のように重かった足が、嘘のように軽く感じられた。まるで力という概念そのものが消え去ったかのように、体がふわりと浮くような感覚に包まれる。かかとが自然に浮かび上がる。

 彼女は、何も考えることなく、最後の半歩を踏み出した。

 周囲が気付いた時にはもう遅い。目の前で起ころうとしていることに脳が反応する暇も与える暇もない距離まで新幹線は迫っていた。

 だが、ただ一人、鳴神秋志なるかみしゅうじだけは違った。

 誰よりも早く異変に気づいていた。その目は、女子高生の動きをじっと捉え、過去の自分と同じ何かを感じ取っていた。

 新幹線の鈍い轟音ごうおんがすべてを飲み込みホーム全体を震わせた瞬間、鳴神は彼女の腕を力強く掴み、ホームへと引きずり戻した。

 強烈な風圧が彼女の髪を乱し、甲高い音が耳に残ったまま、ホームに静寂が戻る。けれど、彼女は何が起きたのかすぐには理解できなかった。

 鳴神が、自分の体をホームに引き戻したことに気づくと、彼女はゆっくりと顔を上げた。体中が震え、唇を噛みしめながら、声を絞り出す。

「なんで……止めたの……」

 鳴神は一瞬も迷うことなく、静かに答えた。

「死んでほしくないから」

 その一言が、女子高生の中に深い怒りを引き起こした。彼女は鳴神を睨みつけ、喉の奥から悲痛な叫びをぶつけた。

「なにそれ……死んでほしくないって。そんな正義感いらないんだけど。自己満足で助けただけでしょ!赤の他人のくせに、私のなにも知らないくせに勝手なことしないでよ!」

 その声は、あまりにも悲しみに満ちており、誰の耳にも焼き付くほどの痛みを帯びていた。

 周囲では、スマホを向ける人々が次々と録画を始め、軽薄な音が四方から聞こえてくる。

 鳴神はその様子に気づきながらも、目の前にいる彼女だけに向かって、静かに言った。

「死んでも、なにも解決しないぞ」

 女子高生は激しく頭を振った。涙が頬を伝い、言葉にならない怒りと絶望が混ざり合った声で反論した。

「じゃあ、あなたにわかるの?!生活保護を受けて、生きているだけで学校ではゴミみたいに扱われてる私のことが!便器に顔を突っ込まれて、水を飲まされたことが!浮気されて離婚した母が、私を大学に行かせようと、寝る間も惜しんで働いて、作ってくれたお弁当を捨てられたことが!それだけじゃない、カンニングの犯人にまでされたの!」

 これまで胸の奥で押し潰してきた思いが激流のように次々と溢れ出す。涙がアスファルトに滴り落ち、濡らしていく。

「誰も助けてくれなかった……友達だと思ってたクラスメイトも、小学校からの親友も、担任の先生も全員!誰も、私を信じようとすらしてくれなかった。だから、もういいの。死にたいの。消えたいの。お願いだから、邪魔しないでよ……もう、私を楽にさせてよ!」

 彼女は弱々しい拳で鳴神の胸を叩きながらその場に崩れ落ちそうになる。

 鳴神は無言で彼女を支え、倒れないようにそっと抱きかかえた。

「こんな、苦しくて悲しいだけの人生なら……産まれてこなければよかった……」

 その言葉を噛み締めるように吐き出す彼女に、鳴神は静かに口を開いた。

「君がどれだけ辛い思いをしてきたのか、全部を理解できるわけじゃない。でも、少しは分かる」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、鳴神を見据えた。

「できるわけないでしょ、適当なこと言わないで!」

 目を伏せず、まっすぐに彼女の目を見つめ返す。

「俺も、中学の頃にイジメられていたんだ。それだけじゃない。高校の時、自殺未遂を起こしたことがある」

 目が大きく見開かれた。怒りに染まっていた彼女の顔は、瞬く間に驚きと戸惑いに変わった。

「イジメられる苦痛や誰にも言えない日々。理解されず、自分が無価値だと思い込んでいく絶望の中で、自分自身を憎むことも侮蔑することも……俺は知っている」

 その言葉は、痛みと苦しみが染み込んだものであった。

 胸の中にあった激しい怒りが少しずつ鎮まっていくのを感じ取りながら、鳴神は続ける。

「それでわかった、死ぬことは解決じゃないって。人生、失敗や過ちを犯してもやり直すことはできる。だが、命だけはやり直せない。命は一つだ、一回きりしかない。君も、俺も、君のお母さんも、今この瞬間しかないんだ。それを投げ捨てるのか?未来のある命を」

 顔を歪めながら低く呟いた。

「そんな綺麗ごと、聞きたくもない」

 小さく笑みを浮かべ、肩をすくめた。

「そうだな。確かに、綺麗ごとだ。まるでカウンセラーか、自己啓発本みたいな……でもな、綺麗ごとを言わなきゃ生きていけないときもあるんだよ。君が生活保護を受けてるってだけでイジメに遭ってるみたいに、世の中は理不尽で、クソだからだ」

 その瞬間、鳴神の表情が真剣なものに変わり、声は低く、重く響いた。

「君は、心の奥底から本当に死にたいと思っているのか?」

 その問いとまっすぐな視線に、まるで逃れようとするかのように、顔を背け、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。

 彼女の動きを見つめ、言葉を続けた。

「本当は、死にたくないんじゃないのか?だから、わざわざこんな人目につく場所を選んだんだろ?誰かに気づいてもらいたかった。誰かに止めてほしかった。自分がまだ生きていていいんだって、確認したかったんじゃないのか」

 震える声でかすかに呟く。

「違う……」

 その否定はあまりにも弱々しく、まるで彼女でさえ確信が持てないようだった。

「このまま君が死んだら、イジメられていた事実はなかったことになるぞ。カンニングの汚名を着せられたまま、君を追い詰めた奴らは、これからものうのうと何事もなく生き続ける。お母さんを残したまま……それでもいいのか?」

 鳴神の言葉が容赦なく突き刺さる。

 眉をひそめ、感情を押し殺すように低く言い返した。

「いいわけない……いいわけないでしょ!でも……」声は震え、諦めに満ちていた「じゃあ、誰に言えばいいの?担任も、友達も、親友も……誰一人として私を信じてくれなかった。私が勘違いしてるって、自意識過剰だって。勇気を出して事実を言葉にしても、信じてもらえなかったら意味ないじゃない!」

 彼女の声が切なく響き渡る。鳴神は静かに口を開いた。

「まだ、君のお母さんがいるだろ」

 彼女は苦笑し、力なく首を横に振った。

「言えるわけないじゃない……頭も顔も悪くて、特技も才能もない。そんな私がイジメられてるなんて、おまけに生活保護が原因だなんて……そんなこと言ったら、お母さんを傷つけるだけじゃん」

「違う。一番傷つけるのは、イジメられて苦しんでることも、辛さも痛みも悲しみも全部、お母さんに打ち明けることなく、自殺してしまうことだ」

 彼女は息を飲み、口を開けたまま何も言えなかった。

「もし君がこのまま死んだら、お母さんは自分を責める。『娘を守ってあげられなかった』って、自分を責め続けるんだよ。君がそう思っていなくても、親はそう思うものなんだよ」

 感情を飲み込もうと必死だったが、その姿を想像したら、ついに堰を切ったように叫び返した。

「そんなの……そんなの分かってるわよ!頭では分かってる……言ってることと行動が矛盾してるって、自分でも分かってる。けど、感情が追いつかないのよ!」

 二人の間に静寂が流れ、数秒の沈黙が続いた。

 鳴神はその静寂を受け止めながら、ゆっくりと立ち上がった。

 彼女は一瞬息を止めた。

 やっぱり見放されたんだ……そう思い込んだ瞬間、目の前に手が差し出された。驚いて顔を上げると、鳴神は彼女を見下ろし、静かに語りかけた。

「なら、感情が追いつくまで俺が支えてやる。君が『生きたい』って心の底から思って、言葉にできるまで。イジメがなくなるその日まで、ずっとこの手を差し出し続けてやる……だから、生きろ」

 鳴神の優しい瞳が彼女に向けられた。その温もりが伝わるような眼差しは、彼女の心にそっと触れる。

 差し出された手を何度も見つめた。

 だが、その手が握られる前に事態を察知した駅員が数名駆けつけ、彼女を囲んだ。鳴神が事情を簡単に説明すると、駅員たちは穏やかな声で彼女に声をかけ、二人は駅員室へと向かう。

 そんな後ろ姿を、まるで見せものみたいに撮影する人達。その一人であるスーツ姿の中年男が、コメントを打ち込む。

 “新幹線待ってたら目の前で女子高生が飛び込み自殺したんだけど。イジメで自殺とか惨めすぎ。てか、死ぬなら迷惑かけずに一人で死ねよな”

 動画も添えて投稿しようとしていた。

 その様子を目にした鳴神は、無言で男のスマホを奪い取ると、地面に叩きつけ、何度も踏みつけた。ガラスが砕け、基盤きばんが見え隠れする。

 周囲の人々は、その行動に一瞬驚き、撮影していたスマホを急いで隠し始めた。

 中年男は、鳴神の肩を掴み、顔を赤くして怒鳴り散らす。

「おい何してやがる!俺のスマホだぞ!器物損壊だ、わかってんのか!」

 冷たく男を睨み返す。

「そんなのどうでもいい。お前は、人が自殺しようとしてる瞬間を撮った挙句にSNSに上げて何がしたい?」

 男は口をモゴモゴさせ、しばし言葉を失った。

「そんなの俺の勝手だろ!お前に指図される筋合いはない!そもそも、人目につくような場所でやる方が悪いんだろ!」

 冷ややかに、しかしどこか哀れむような目で男を見つめた。

「確かに、人目につく場所でやるのは悪いかもしれない。だが、それが他人を晒し上げたり、ネットのおもちゃにしていい理由にはならない」

「いやだから……」

「こんなことして楽しいか?人生が変わるのか?いい歳した大人がそんなことも分からないのか?あの女子高生よりもあんたの方がよっぽど惨めだ」

 その言葉に男は顔を真っ赤にしてさらに声を荒げた。

「お前!俺ばっかり言うなよ!周りの奴らだって撮ってただろうが!何で俺だけに言うんだよ!そもそも、イジメごときで自殺するあの弱いガキが悪いんだろ!」

 その言葉に、鳴神の目に怒りが宿った。一歩前に出て低く鋭い声で言い返す。

「弱くて何が悪い!」

 怒声に男は一瞬たじろぎ、後ずさった。鳴神はそのまま言葉を続けた。

「人間は弱くて脆い。それが思春期の高校生ならなおさらだ!お前は『イジメごとき』って言ったが、お前はイジメを受けたことがあるか?死のうと思ったことがあるか?」

「……」

「黙ってないで答えろ」

「ないに決まってるだろ」

「そうだろうな。だからそんなことが言えるんだろ。お前は何も知らないから簡単に『弱い奴が悪い』なんて言える。分からないから、共感もできないし、理解もできない。そして、理解できないから否定しようとする……お前の言う弱い奴の自業自得なら、もし、自分の子供がイジメに遭って自殺しようとしても『弱いから』って理由で見捨てるんだな?」

 黙り込んだまま、苛立ちと辱めの入り混じった表情を浮かべ、鳴神を睨み返す。

「警察でも裁判でも好きにすればいい。弁償もしてやる、前科がついても構わない。それでも俺は、自分の信じる生き方を貫く。お前や周りが何を言おうと、俺は胸を張って死ねる生き方を選ぶ」

 鳴神は一度深く息をつき、冷たい視線で男に言い捨て、振り返ることなく駅員室へと歩き出した。

 駅員室に入る。彼女は肩から毛布をかけられ、椅子に無気力に座り俯いていた。女性駅員が隣に座って話しているのを聞く。

 新幹線は遅延することなく運行を続けており、警察への連絡も行われていたが、損害賠償などは求められないとのことだった。母親にはすでに連絡が入っており、間もなく到着するらしい。

 話がひと段落し駅員が離れたところで、彼女のもとへ近づく。新幹線の時間が迫っていたからだ。

 膝をつき、静かに話しかけた。

「大丈夫か?」

 ゆっくりと顔を上げた。視線はまだどこか遠くを見つめていた。

 隣に腰掛け、しばらく無言の時間が続いたが彼女から口を開いた。

「私って、生きていいと思いますか……その価値が、あるんですかね」

「生きる価値は誰かが決めるもんじゃない。君自身が決めるものだ。たとえ周りがどう言おうが、君が生きたいって思った瞬間に、その価値は存在するんだよ」

「でも……私は誰かの役に立ってるわけでもないし、みんなに嫌われてる……それなのに、生きていていいなんて言えるんですか?」

「役に立つことや、誰かに好かれることが生きる理由じゃない。君が君として存在していること自体、すでに価値がある。それを実感しているのは君の母親だよ。生きる意味とか価値なんてそれだけで十分だ」

「……でも、そんなふうに強く思えるのは、一部の人だけじゃないんですか?私みたいな人間は、どうしたって」

「そんなことはないさ。誰だって強く生きる力を持ってる。ただ、それを見つけるのに時間がかかるだけだ。それに、強さっていうのは最初から持ってるものじゃない。誰だって弱さを抱えてる。たまたま、それを隠すのが上手かったり、立ち直るきっかけを掴めたりしてるだけで、みんな心の中には不安や恐怖が必ずある。君が“私みたいな人間”だと思ってるのは、ただ君がその一面しか見えてないだけだ。なにかを乗り越えた先には、君の中に新しい強さが芽生えているはずだ」

 彼女はしばらく考え込んだあと、小さく頷いた。そこに弱さを感じなかった。先ほどまでの絶望とも違う。かすかではあるが前を向こうとする強い意思と覚悟が感じられた。

 鳴神はポケットから二つ折りにした小さなメモ紙を取り出し、そっと彼女に差し出した。

「なんですかこれ?」

 彼女は不思議そうに、目を丸くして尋ねた。

「電話番号だ」

 その言葉に、さらに目を見開く。まるで、予想外の贈り物を受け取ったかのように。

「あの時言ったことは冗談でも、その場しのぎでもない。いつでも電話してくれ。俺は、君の味方だ」

 “君の味方”というたった五文字の言葉が、胸に深く響いた。誰にも信じてもらえず、ずっと一人だと感じていた彼女にとって、その言葉は心の奥底にまで届く救いの光だった。

 不謹慎だと分かりながらも、彼女はふと心の片隅で——自殺しようとしてよかった。だって、こんなふうに救われる瞬間に出会えなかったのかもしれないから。

 メモを受け取った彼女は、それを強く握りしめた。

 そして、静かに目から涙がこぼれ落ちた。

「ありがとうございます……」

 涙の中から、ふっと浮かんだ彼女の笑顔。それは、さっきまで自殺を考えていた少女とは思えないほど、柔らかく、温かいものだった。

 最後に別れを言ってから、鳴神は彼女に手を振られながらその場を後にして、さっきの新幹線ホームへと戻って来た。

 さっきまでの騒動がまるで嘘だったかのように、周囲は平穏を取り戻していた。人々が行き交い、足早に乗り込む姿は、当たり前に目にする日常だ。

 電光掲示板を見上げ、時刻表と手元の切符を照らし合わせた。発車までには、まだ十分ほどの余裕がある。さっきまでの極度の緊張から解放されると、どっと緊張が抜け、重い眠気が襲ってきた。近くの自販機に足を運び、缶コーヒーを一つ購入した。ホームのベンチに腰を下ろし、ショルダーバッグから抗不安薬を一錠取り出すと、それを缶コーヒーで一気に流し込んだ。

「はぁ……」

 小さくため息をつき、周囲を見渡しながら風の気配を感じた。

 そのとき、ポケットにしまっていたスマホが突然鳴り響いた。着信音に驚き、慌ててスマホを取り出し、急いでサイレントモードに切り替える。

 画面を確認すると、発信元は海斗だった。

 時刻はすでに九時を回っている。この時間帯を狙ってかけてきた理由は、鳴神にはすぐに察しがついた。スマホをしばらく見つめ、どうするか迷った。

「仕方ないな……」

 決心したようにスマホの画面をタップし、海斗の電話に応じた。

「おはよ、海斗」

「おは、久しぶりだな!」

 電話越しに響く海斗の声は明るく、まるで昨日まで話していたような親しみがあった。実際、ラインでのやり取りは続けていたが、こうして声を聞くのは久しぶりだ。

「話すの、いつぶりだっけ?」と海斗が尋ねる。

「たぶん、去年の夏に地元に帰ってくるのかって電話してきたときじゃないか?」

「そんなもんだっけ?なんか何年も話してなかった気分だわ。てか、声が眠そうだな」

「色々あってな。それに、昨日から寝てないんだ」

「昨日から?荷造りに手間取ったか?」

「いや、睡眠薬を飲んでも効かなかっただけだ」

「そうか……」

 海斗は少し悩ましげな声を出したが、鳴神は話を進めた。

「それはいいとして、世間話するためにこんな朝早くから電話してきたんじゃないだろ?」

 そう言うと、海斗は鼻で笑った。

「さすがにお見通しか……本当に卒業式に出なくていいのか?この時間に電話に出るってことは、やっぱり出席してないんだろ」

「やっぱりな。わざわざそんなことのために電話してきたのか?」

「そんなことじゃないだろ」

 海斗は少し不満そうに続ける。

「この六年間、地元に帰ってきたのは成人式のときだけだった。お前、毎日頑張って過労で倒れるくらい勉強して、しかも首席まで取ったのに、卒業式に出なくていいのかよ?一度きりしかないんだぞ」

 鳴神は、薬の副作用で重くなった頭を軽く押さる。

「今まで遠慮して言わなかったが、まだ自分のせいだと思ってるんじゃないのか?自分が楽しい思いをしていいわけがないとか、幸せになっちゃいけないとか。もしそうなら――」

 鳴神は海斗の言葉を遮る。

「そんなことは考えてないさ。これは、最初から決めていたことだ」

「本当か?」

「ああ」

 海斗だけではない。家族や優那からも同じような反応をされてきた。

「卒業式に出ないのは後悔しないのか?」

「友達と一緒に祝いたくないのか?」

「顔を合わせるのが嫌なのか?」

 理解は示しつつも、納得はしてくれなかった。

「申し訳ないとは思うよ。ここまで来られたのは、海斗や優那、家族の支えがあったからだ。その感謝を伝える場である卒業式に出ないことに罪悪感を感じるし、恩を仇で返すみたいで心苦しいよ」

「……」

「でも、俺にとって卒業は目的じゃなくて、ただの通過点、スタートラインでしかないんだ。だから、ごめん。卒業式には出ない」

 電話の向こうで、しばしの沈黙が続く。海斗の言葉を待った。

「ホント、お前は昔から変わらずクソ頑固だな」と、海斗はようやく納得半分、諦め半分のため息をついて言った。

「なら、俺がとやかく口出しすべきじゃないな」

「すまん。気持ちだけは受け取っておくよ」

二人の間に再び沈黙が流れたが、今度は気まずさではなく、ある種の理解と共感がその場を包んでいた。

 聞き慣れない駅メロが流れ出す。

「すまん時間からきる。わざわざありがとうな」

「おう!明日の卒業祝い、ちゃんと来いよ!」

「忘れてないさ。じゃ、明日な」

 電話をきり、生ぬるいコーヒーを一気飲みし立ち上がった。 

 唇が乾燥するほど暖房の効いた車内は、ほとんど空席だった。前から二番目の席に深く腰掛け、財布に切符をしまうと、リュックを足元に置いた。やがて、新幹線はゆっくりと動き出し、静かに走り始める。耳が詰まる感覚が押し寄せ、肘掛に頬杖をつきながら車窓を眺めた。パノラマのように流れていく町並みは、もう二度と戻ることのない景色だった。

 二つ目の停車駅を過ぎた頃、ポケットのスマホが震えた。今日はやけに着信が多いなと思いながら、画面を確認すると、優那からのメッセージが届いていた。

「ちゃんと新幹線乗ったか?」

 鳴神は思わず二度見する。

 昨日、いや正確には今朝方まで電話に付き合ってもらっていた。深い夢の中にいると思っていたので考えもしなかった。

「ちゃんと乗ったよ」

 ただ言葉だけでは信じないだろうと思い、車窓から見える景色を撮影して写真も添付する。送信すると、すぐに既読がついた。しかし、そのまま数分が過ぎても返信はなかった。きっと心配で送ってきただけなのだろうと、そのままスマホを置こうとした瞬間、再びバイブが鳴った。

「ならよし。帰ってきたら、紗月さつきの家に行くんだよね?」

 そのメッセージを目にした瞬間、息が詰まり、思わず嗚咽を押し殺した。優那から紗月の名前が出てくるとは、全く予想していなかったからだ。とあることがきっかけで、優那の目の前でPTSDを発症し、診断を受けるきっかけになった。それ以来、一度たりとも紗月の名前を口にしていなかった。

 呼吸を整え、慎重に指を動かして返信した。

「行くよ」

 再び既読がつき、優那が何かを打ち込んでいるのが画面越しに感じられる。その間、ただ息を整えることに集中していた。

「なにかできることがあったら、なんでも言ってね」

「その時は頼るよ」最後に「ありがとう」とだけ書かれたスタンプを送り、スマホをポケットにしまった。

 車窓の外には、再び無機質に流れる景色が広がっている。だが、その景色に心は一時的に留まることはなく、過去と未来が交錯する複雑な感情の中を漂っていた。紗月の家に行く――いつか避けて通れない日が来ると分かっていたことだったが。

 車窓に映る自分の姿が、惨めで情けなく見えた。

 海斗は高校を卒業してすぐに祖父のもとで働き、中学時代からの夢だった一級建築士の資格を取った。二年付き合った彼女とも結婚し、来年には子供が生まれる予定だ。優那は 大学を卒業後、誰もが知る企業に就職するも、一年で辞めてインテリアデザイナーになる夢を追った。数年の下積みを経て独立し、今では仕事が途切れないほど忙しいらしい。

 それに比べて俺は、六年前のあの日から、何一つ変わっていない。過去は変えられない。そんなことは分かりきっているはずなのに、前に進むことができないまま、ただ立ち尽くしている。

 自分が止まっていても、周りの時間は止まらない。季節は巡り、時は流れ続ける。それに気づきながらも、ずっと俺は同じ場所にとどまっていた。

「いい加減、前に踏み出さないとな……」

 そんな風に思った矢先に、あの女子高生が現れた。

 彼女を助けたのも、結局は自分のエゴに過ぎなかった。紗月を助けられなかったことへの罪滅ぼし。PTSDを克服するきっかけになるかもしれない、そんな淡い期待を抱いていたんだ。

 鳴神はスマホの写真アプリを開く。

 この六年間、ほとんど触れることのなかった鍵付きのフォルダ。そのフォルダを解除しようとする指先が震え始める。全身が金縛りにかかったように硬直し、吐き気がこみ上げてきた。

 震える手で、パスワードを入力する。

 1104

 紗月の誕生日だ。

 表示されたのは、三十枚の写真。紗月と過ごした思い出の断片たち。

 初デートのスタバの店内、水族館の後に寄った海辺の夕焼け、紗月の秘密を知った日の部屋で、能古島で博多湾を背景に撮った写真――それらが次々と表示されるたびに、鳴神の全身から冷や汗が噴き出し、頬を伝う。手にしていたスマホは床に落ち、震える手で胸を押さえ、必死に息を吸おうとする。

 そして、フラッシュバックする。六年前、あの日の光景。

 真っ赤な血が、俺の指と指の間から溢れ、真っ白なシーツを染めていく。紗月はもがき苦しみながら、自分の服を必死に引っ張った。全身を痙攣させ、充血した瞳から涙がこぼれる。それでも、そんな状況でさえも、彼女は微笑んでいた。嬉しそうに、最後の力を振り絞るように。彼女の冷たい手が、俺の頬にそっと添えられたんだ。

「お客様、大丈夫ですか?!」

 と乗務員の声が鳴神の耳に飛び込んできた瞬間、現実に引き戻された鳴神は、口を押さえたままデッキへ駆け出し、トイレのドアを乱暴に開けた。

「おうぇええ!」と、コーヒーと胃液が混ざった吐瀉物が勢いよく吐き出される。汗や涙が混じり合い、無力感に襲われる。

 この感覚、もう何度も経験したものだった。克服しようと何度も何度も挑み、血が滲むほど吐き散らしたこともあった。

 あの日、紗月の弟と妹から向けられた憎しみの視線、殺意に満ちた声で言われた「お前がお姉ちゃんを殺した!」それが今でも頭にこびりついている。俺が紗月の家族を奪ったんだ。しかもまだ小学生だった二人から大切な姉を、俺が、奪った。自分という存在がなければ、辛いことも忘れさせてくれる愛らしい笑顔で今でも生きていた。

 あの日、あの瞬間、君と出会っていなければ。

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