最終章 ずっと私は貴方のもの

第70話

十一月二十二日。

いい夫婦に日に私たちは入籍した。


「これで私は、本当に鹿乃子さんのものです」


帰ってきてからずっと、作った結婚証明書を漸は嬉しそうににこにこ笑って見ている。


「私も漸のものになったということです」


ちゅっ、と軽く、唇を重ねる。

意外だったのは、祖父が早めの入籍を勧めてきたことだ。

本来なら年末に返事をもらうはずだったし、式は春を予定しているから入籍はそのどちらかにあわせて、という話だった。


『なんでぇ、もう事実上の夫婦なんだから、さっさと籍入れてしまえ』


なんて照れくさそうに首の後ろをぼりぼり掻きながら祖父に言われ、ありがたくそれに従ったというわけだ。


「でも、よかったんですか?」


婚姻届の、婚姻後の夫婦の氏は妻の氏にチェックを入れた。

ということは漸は、三橋漸から有坂漸になったというわけだ。


「いいんですよ。

だいたい、養子縁組みは絶対ダメだっておじい様が首を縦に振ってくださらないから」


はぁっ、と漸の口からため息が落ち、苦笑いしかできない。

結婚のお願いに私の実家へ行ったとき、漸は婿養子にしてくれともお願いしたのだ。

でも、俺はそこまでてめぇの人生に責任は持てない、と反対された。

……祖父に。

いや、養子縁組みをするのは父なんだけどね?

まあいいけれど。


「けど、あとで怒られないですかね……」


両親も祖父母もまだ、漸が有坂姓になったのを知らない。

保証人のサインをもらいに行ったときにチェックが入っていないと指摘されたが、あとで入れるからと誤魔化した。


「もう書類は受理されましたからね、問題はありません」


漸は涼しい顔でコーヒーを飲んでいるが、いいのかなー、本当に。


「実家には何時頃、行きますか?」


「そろそろ準備した方がいいかもしれません」


今日の夕食はお祝いだからと、実家に招待されていた。


「じゃあ着付け、しますか?」


「はい、お願いします」


入籍のお祝いだからきちんとした装いをしたくて、祖父の訪問着を選んだ。

そういうわけで今日は、漸の着付けというわけだ。


「それで漸は、紋付き袴なんですね」


「え、なにかおかしいですか?」


「いえ……」


結婚のお願いのときも紋付き袴で行って引かれたんだよねー。

いや、スーツと同等の正装、となればそうなるのはわかるんだけれど。


「あ、タクシー、来たみたいですよ」


「はい」


戸締まりを確認して家を出る。

今日は飲むのがわかっているので、タクシーだ。


「ただいまー」


「お邪魔します……」


「おう、鹿乃子、来たのか」


実家ではすぐに祖父が、出迎えてくれた。


「それ、俺が作ってやった訪問着じゃねぇか」


漸を一瞥しただけで、あがれと祖父が促す。

もうあれに、ツッコむ気はないらしい。


「うん。

……似合ってる、かな」


これに初めて袖を通したのは漸の実家へ行ったときで、祖父にはまだ着姿を見せていないのだと、気づいた。


「よく似合ってる。

もういっぱしの若奥様だ……」


徐々に祖父の声が鼻づまりになっていき、とうとう、うっうっと声を詰まらせて泣きだした。


「えっ、ちょっと!

泣かないでよ!」


「すまねぇ、勝五郎を子分にしていた鹿乃子が、結婚かと思うとよぅ」


「うっ」


ずびっ、と祖父は鼻を啜ったが、……それは黒歴史なので勘弁してください。


「あらーっ、鹿乃子、綺麗ねー」


「おっ、それ、じいさんが鹿乃子の成人の祝いに作った奴じゃないか。

さすが、似合ってるな」


「鹿乃子、綺麗だわ」


私を見て、他の家族も口々に褒めてくれるのがなんだかくすぐったい。


「鹿乃子も漸くんも来たなら、話があるんだ。

ちょっと工房、いいか」


急に父が真面目な顔になり、不安になった。

有坂染色が問屋から切られたのはほんの少し前の話だ。

いまは漸が担ぎ屋のようなことをやって自分の顧客を回り、売上を作ってくれている。


工房で私たちを前にした父と祖父は、恐ろしいほど真剣な顔をしていた。

まさか、またなにかあったんじゃ。

悪い想像ばかりがあたまの中をぐるぐると回る。


「これを、受け取ってほしい」


目の前に父が置いた衣装盆には、なんだか分厚い物体がのっていた。


「……布団?」


「ちがーう!」


言った瞬間にツッコまれた。


「打ち掛け、ですか?」


「さすが、漸くん」


うっ、漸は褒めるんだ……。

まあ、わからなかった私も悪い。


「じいさんとふたりで作ったんだ」


祖父とふたりで置いてある、衣桁へかけてくれる。

それは鮮やかな赤地に四季の花と鶴亀が描かれた、祖父にしてはモダンな柄だった。


「鹿乃子には絶対、赤が似合うからな」


「同感です」


うんうん、と漸は祖父に同意しているが、それはそーだろーねー。

私のエロ下着は赤が一番、お好みですし?


「いままでどおりのがっつり古典の柄もいいが、若い人間向けに少しばかり遊び心のある柄もいいかと思ってな。

鹿乃子にはこういう、可愛い花嫁になってほしくて……」


ごにょごにょと父の声がだんだん、小さくなっていく。


「なに照れてんだよ、てめぇは!」


「いてぇよ、じいさん!」


バシッと背中を叩かれ、父は若干、キレているが……これって?


「お父さんが作ってくれたの?」


さっき、祖父と作ったとは言っていたが。


「俺はちぃっと、手伝いをしただけだ。

柄も全部、こいつが考えた」


「あっ、こら!

じじぃ!」


慌てて父が、祖父の口を塞ごうとする。

……成人式の着物も祖父に譲った父が私に、花嫁衣装を?


「絶対に鹿乃子の花嫁衣装は、譲らないだってよ」


「だからじじぃ!」


父に愛されていないだなんて思ったことはない。

それでも過剰な愛情を注ぐ祖父に対して一歩引いている父を、淋しくは思っていた。

……しかし。


「……ありがとう、父さん」


出てきそうになった涙は、鼻を啜って誤魔化した。


「凄く、嬉しい」


「……喜んでくれたんならよかった」


赤い顔で父は、首の後ろをぽりぽり掻いている。

この人の子供でよかったな。

おかげで、最近ずっと考えていたことは、決心が固まった。

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