第68話

「……それでも向かっていくんですよ、私の可愛い鹿乃子さんは」


肩に手が触れ、見上げる。

目のあった漸が、眼鏡の奥で目尻を下げて微笑んだ。


「ただいま、とは言ったんですが、お話が弾んでいて聞こえなかったみたいで」


見せつけるかのように漸の唇が、ちゅっ、と軽く重なる。


「志芳さん。

鹿乃子さんは私を守るためなら、どんなに強大な敵でも立ち向かってくれるんです。

そんな人だから、私は好きになりました」


「わかるわよ、それくらい!

だからこそ……!」


ううん、と静かに漸が首を横に振る。


「私たちふたりなら、どんな敵にも勝てます。

そう、信じていますから」


私を見つめる漸は、どこまでも慈愛に満ちていた。

それが嬉しくて、自然に微笑んでしまう。


「それに私には荒木田総理の方から婚約破棄していただく、理由があるんです」


「そんなの、あるの……?」


縋るように志芳さんが漸を見上げる。


「はい。

私、不能なんですよ」


「不能、って?」


不思議そうに彼女の首が傾く。

もしかして、まだ彼女って心身ともにピュアなのでは?


「勃たな……」


「わーっ、わーっ!」


大声を出して、全力で漸の言葉を遮った。

これはまだ、聞かせてはいけない。


「なんですか、鹿乃子さん。

急に大きな声を出して」


「たたないって、なにが?」


また、彼女が首を傾げる。

くそっ、可愛いな!


「それはですね、……」


「わーっ、わーっ」


具体的な名称まで出てきそうになってまた止めた。

漸ってときどき、デリカシーないよね?


「本当にどうしたんですか、さっきから」


「いいから!

いいから!

……志芳さん。

ようするに漸とだと、子供が授かれない、ってことですよ」


うん、これなら大丈夫だろう。

漸はさっきから不服そうだけど、黙っておれ!

志芳さんのピュアは私が守る!


「子供が授かれない、って……。

えっ、鹿乃子お姉さま、大変じゃない!」


うおっ、なんかいきなり、お姉さまなんて呼ばれちゃったよ!


「大丈夫ですよ、可愛い鹿乃子さんとならできるので。

でもやっぱり、鹿乃子さん以外の女性にた……ぐふっ」


「うん、私とだったら大丈夫だから安心して?」


華麗に肘鉄が決まって漸は悶絶しているが……いいから、黙ってて!


「なら、いいけど……。

でもそれで、お父様が納得してくれると思えない」


「あなたの父親にとって跡取りがなにより大事ですからね。

子供をひとりだけ、しかも女子しか産めなかったあなたの母親をあしざまに言っているのは有名な話です。

そんな人ですから、子をなせない私なんてなんの価値もありません」


漸、それを志芳さんに聞かせる?

わかっていたんだろうが、ショック受けているじゃない。

それに志芳さんだって、子供を、特に男児を産めなければ、同じ目に遭うってことだ。


「……漸」


袖を引いて、漸の目をレンズ越しにじっと見つめた。

この子をこのまま、東京に帰したくない。

私と出会う前の漸と、同じ地獄に置いておきたくない。

こんなの、ただのわがまま、偽善、安い同情、ただのお節介、そんなものだとわかっている。

それでも彼女が、ほんの少しでも救われるのなら。


「わかっていますよ」


私を安心させるように、とんとん、と軽く漸が肩を叩いた。


「金池様にお願いしてみます。

こういう言い方はあれですが、あの方のご実家は荒木田家よりもずっと上ですからね」


「いいのかな、金池さんにご迷惑をかけてばかりで」


実家の工房を彼女に助けてもらうようになっている。

それなのにさらに、こんなお願い。


「そうですね、この件はおじい様の着物一枚で手を打ってもらえないかお願いします。

なので鹿乃子さん、頼みましたよ?」


「了解です」


やっぱり漸は、私の素敵な旦那様だ。

ときどき、デリカシーはないけれど。


さっきから話題の主なのに、なにが起こっているのかわかっていない志芳さんと向き直る。


「志芳さん。

上手くいくか、確約はできません。

でもこちらから、志芳さんが家から自由になれるように手を尽くさせてもらおうと思います。

もし、いらぬお節介だったら、言ってください」


みるみる彼女の目に涙が溜まっていく、そのまま、何度もぶんぶんと彼女は首を横に振った。


「これからは好きなだけ、お洋服作れるようになるの?」


「はい、そうなるように頑張ります」


「少女まんがみたいな、恋もできるの?」


「あー、それはちょっとあれですが、誰にも決められずに、自由に恋ができますよ」


嬉しそうに涙を拭う彼女は、等身大の二十歳の女の子に見える。


「鹿乃子お姉さま、大好き!」


「えっ、あっ」


いきなり、志芳さんから抱きつかれた。

ああもう、可愛いなー。

妹がいたら、こんな感じだったんだろうか。


「……」


どーでもいいけど、漸。

無言で睨むのはやめてください。

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