第50話

タクシーはまた、銀座に戻ってきていた。


「えっと……。

漸?」


これなら先に、用事を済ませて明希さんのお店に行った方がよかったのでは?


「私の都合より鹿乃子さんのビジネスのほうが大事ですから」


さりげなく私の手を取り、漸が歩きだす。


「……ありがとうございます」


漸のそういうところは好きだけれど、私としては少しくらいわがままを言ってほしいな。


「ここです」


ほとんど歩かずに漸が足を止めたのは、高級宝飾店の前だった。


……えっと。

婚約指環でも買おうというんだろうか。

気が早すぎ……ないか。

もう私は、漸と結婚すると伝えたようなもんだし。

いやいや、ちょっと待って。

漸は私のものだとか、漸は私の男だとか。

あまつさえお父さんには漸をください、なんて言ったが、具体的に漸へはなにも言ってないのでは?


「鹿乃子さん?

さっきからなに、面白顔をしているんですか?」


「えっ、あっ、なんでもないです!」


漸に促されて店に入る。

……うん。

マズい。

これはひっじょーにマズい。

金沢帰ったらいい雰囲気にセッティングして……いや、待て。

これは本来、漸の方がするべきことなのでは?

あー、でも、私の方が逆プロポーズみたいなことをやったわけで……。


「鹿乃子さん?」


「あっ、はい!」


再び、漸から怪訝そうに顔をのぞき込まれ、視線を現実へ戻す。

そこにはペアのリングが並んでいた。


「結婚指環を買うんですか?」


婚約指環もまだなのに?

なんてことはこの際、置いておく。


「私の話を聞いていましたか、鹿乃子さん?

婚約指環と結婚指環は改めて、きちんと時間をかけて選びます。

でも、とりあえずものが欲しくて」


「とりあえず、ですか?」


それにしてはお値段が……。


「はい。

まだ店で接客に立ちますからね、指環をしていればある程度、諦めていただけます。

……まあ、そういう方が燃える、とかいう方も一部、いらっしゃいますが。

あと」


うっとりと漸が、自分の左手薬指の根元を撫でる。


「ここに早く、鹿乃子さんのものだという印をつけていただきたくて」


眼鏡の奥から視線のあった漸の、目尻が下がる。

僅かに上がった口角、とても幸せそうな顔に、……私の顔が火を噴いた。


「あ、うん。

はい。

でもとりあえず、なんですよね?

結婚指環は改めて買うんですよね?

なら、こんなお高いものじゃなくてもいいんじゃ……」


店の方を前にこんなことを言うのは申し訳ないが、でもたったそれだけのために高価なものを買うのは気が引ける。


「けれど、初めて鹿乃子さんからつけていただく印です。

ならば、それ相応のものでないと」


私の手を取って漸は力説してくるが……。

そろそろ、やめてー!

つけていただく、つけていただくって、店員さんが私たちをどんな関係で見ているか不安になってくる。

若い女王様とおじさん奴隷とか思われていたらどーしよー。


「あの、えっと。

なら、私が買いますので、それなりにお手頃なお店にしてください」


「鹿乃子さんが買ってくださる!?」


ぱーっと漸の顔が輝く。

よし、これで納得してくれたとか安心したのは一瞬だった。


「でもあの、可愛くない帳簿の鹿乃子さんに、ご無理をさせるわけにはいかないので」


「うっ」


はぁーっ、と漸の口からため息が落ちていく。

そうだった、漸は我が子鹿工房の経営状態を知っている。

と、いうことは、私の懐具合も知っているわけで。


「……少しくらい、貯蓄はありますので」


なんだろう、この、屈辱感は。

くっそー、みていろ。

プチプラの指環を買ってあげても漸が遠慮しないくらい、稼いでやるんだから。


「貯蓄はもしものときのために取っておくものです。

でもそこまで鹿乃子さんが言うのなら、もう少しお手頃なお店にしましょう。

……お手数を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」


無駄な接客になってしまった店員へ、漸が詫びる。

そういうことができる漸は、本当に好きだ。

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