第45話

その後は漸ののろけ話をひたすら聞いていた。


「一度、鹿乃子さんがお寝坊して、駅まで送ってもらえなかったことがあったんですよ」


なんの話が出てくるのか、ヒヤヒヤしながら黙ってワインを飲む。


「そうしたら次、帰ったときに、拗ねられました。

ちゃんとお見送りしたいから起こしてください、って」


「うっ」


言ったよ、確かに!

だって東京へ行く漸にちゃんと、いってらっしゃいを言いたいんだもの!

それじゃなくても傷つきに行くんだから。

それをそんなに、嬉しげに人に話されても!

しかもそれを、立本さんがニヤニヤ笑いながら聞いているとなると、恥ずかしさは倍増だ。


しかし、そんなことなど気にせず、にこにこ笑いながらワインを飲む、漸のピッチは速い。

まあ、祖父と酒比べをしても負けない漸だから大丈夫か。


「しかもですね」


これで終わりじゃないのかー!

なんてツッコんでも悪くないよね?


「枕元に目覚まし時計が増えているんですよ。

『寝室に時計はないから、いちいち携帯で確認するのが面倒くさいので』とか言って。

もう、可愛いですよね?」


うがーっ!

誰か、誰か、漸の口塞いでくれー!

もうこっちは恥ずかしすぎて爆発しそうなくらいなのに、さらに。


「うん、その話もう、五回くらい聞いた」


とか立本さんにさらっと流されてよ?

死ねるから。


「てか、漸。

話は変わるけど、その髪は切るのか?」


髪を切る、とは?

漸の背中に垂れる、長い髪へと視線が向く。

ひとつに結ばれた髪は背中の中程まであった。


「そう、ですね。

もう切っていいのかもしれません」


「え、切るんですか?」


漸に似合っていて好きなんだけどな、この髪。

あ、でも、これからは呉服の仕事じゃなくスーツでの一般ビジネスが主になるのなら、これは向かないのかな?


「願掛けで伸ばしていたんですよ、この髪。

見苦しくなるといけないのでときどき切っていたので、この長さですが。

でも、もう願いは叶ったので切ってもいいかな、と」


「願掛け、ですか?」


とは、なんの?

首を傾げた私を、くすりと小さく漸が笑う。


「はい。

あの家から自由になる願を掛けていました。

父からは不評でしたよ、男がそんな女みたいに髪を伸ばしおって、とか言われましたね」


「酷い」


接客にあわない、ならまだわかる。

でも女みたいにって。

そんなの、個人の自由じゃない。


「コンサルのほうの仕事ではこの髪のせいで、胡散臭いとか言われたこともありますしね」


「それも酷い」


長髪がビジネスに向かないのはわかるけれども。

でも私が会社員時代にいた、いつも肩にふけが降り積もっていたおじさん社員より、漸のほうが断然、清潔で好感度は高い。


「私は好きですよ、漸のこの髪。

だって格好いいですもん」


「格好いい、ですか?」


目尻を下げてへらっ、と実に締まらない顔で漸が笑う。


「はい、格好いいです」


「可愛い鹿乃子さんがそう言うのなら、切るのはやめましょう」


にこにこ、にこにこ。

さっきからずっと、漸は笑っているが、もしかして、酔っている?

あの、漸が?


「どーでもいいけどよ、そーゆーのはふたりっきりのときにやってくれ」


呆れ気味なため息と共に立本さんの声が聞こえてきて、慌てて漸から視線を外した。

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