第15話

ホテルに帰り、夕食は部屋に取ってくれた。


「あの、取っていただいたのに申し訳ないのですが、食べられる気がまったくしないので……」


「いいから」


肩を押されて渋々椅子に座る。

和家さん側にはパスタやなにかが並んでいるが、私のほうにはスープと、トマトのサラダらしきものが置いてあるだけだった。

さらに。


「……においが」


冷めているのかあまりにおわない。

それだけではなくこんな料理だとしそうなにんにくやなんかのにおいもなかった。


「李依に合わせてもらった。

これなら大丈夫か?」


少し心配そうに和家さんが私の顔をうかがう。


「そうですね、いまのところは大丈夫です。

でも、申し訳ないです……」


私のために冷めた料理を食べさせるとか。


「李依のためだったらなんだってするからいいんだ」


和家さんは笑っているが、私としては大変心苦しいです……。


「さて、食べようか」


「……そう、ですね」


そこまで彼が気を遣ってくれたものの、食べられるかどうかはかなり怪しい。

この頃は食べたら吐くのが怖くて、口に入れるのが怖いというのもある。


「つわりでも食べられそうなものをリサーチして作ってもらったんだ。

少しでいいから食べてみないか?」


迷っている私に和家さんが勧めてくる。


「じゃ、じゃあ、少しだけ……」


スープなら少しは飲めそうな気がしないでもない。

トマトのサラダも美味しそうに見えた。

それに和家さんの気持ちが嬉しい。


「……いただき、ます」


おそるおそるトマトのサラダを口に運ぶ。


「……美味しい」


意外とさらっと、飲み込めた。

ひさしぶりの固形物に身体が喜んでいるのがわかる。


「凄く、美味しい、です」


手が止まらず、ぱくぱくとサラダを食べ進める。

こんなに食べられるのって、いつぶりだろう?


「……お代わり欲しい、かも」


あっというまに完食した。

それでもまだいけそう。


「そうか、そんなにか」


眼鏡の奥で目尻を下げ、和家さんが嬉しそうに笑う。

その顔に――胸がきゅんと甘い音を立てた。


「あ、えっと」


「なら、作ってもらうか?」


「いえ、そこまでは」


どきどきと心臓が速く鼓動する。

熱い顔で視線を逸らし、俯いた。

どうしてこの人は私に、こんな顔を向けるんだろう。

こんなの、好きになっちゃう。

いや、もうすぐ旦那様になるんだし、好きになっていいのか。


食事のあとは今後の相談をした。


「両親に連絡ついて、明日、大丈夫だそうです」


「わかった」


明日は土曜で私が休みなので、両親に挨拶へ行こうと言われていた。

予定だけ確認して紹介したい人がいるから、と、あとは既読スルーしているのできっと今頃ヤキモキしているだろうが……ごめん。

前の彼と別れたばかりなのにでき婚だとか言いづらい。


「それで。

李依はいつまで仕事を続けるんだ?」


……きた。

和家さんとしてはそこが気になるところだろう。


「あの。

仕事を続けてはダメでしょうか」


レンズの向こうと視線を合わせ、真っ直ぐに彼を見る。

結婚渡米の予定がなくなったのなら、仕事は続けたい。


「李依はそんなに、今の仕事を続けたいんだ?」


「はい」


「じゃあ、どうして続けたいのか、僕が納得できるように説明して」


和家さんはいつもの甘い顔とは違い、少し怖い顔をしている。

もしかしてこれが、経営者としての彼の顔なのかな……?


「それは……」


口を開いたものの、なにも出てこない。

今の会社は好きだが、生涯を捧げるほどではない。

あるとすれば経理部配属が決まって通った専門学校が、もったいなかったかなというくらいだ。

しかし。


「……仕事を辞めて専業主婦になり、ただ和家さんに養われるのは嫌です。

自分のお金くらい、自分で稼ぎたい。

そうじゃないともしなにかあったときに困りますから」


……和家さんに捨てられたときとか。

この結婚は子供ができたから仕方なくという以外、理由がない。

だから余計に今は私を可愛がっている和家さんだって別れた彼のように、急に心変わりしないとは言えなくて不安だった。


「ん、わかった」


しかし彼の言葉は重く、反対されるのかと身がまえる。


「李依のそういう姿勢、いいと思う。

でも李依は今、妊娠している。

食事もまともに取れていない。

だからしばらくはお休みしてもいいんじゃないかな」


彼の言うことはもっともだ。

まだ会社ではバレていないが、仕事がつらいときもある。

それにどんなに頑張っても出産前後は休みを取らなければならない。

なら、……一旦辞めるものあり?

でも、それって。


「……それは逃げるみたいで嫌です」


私はあんな噂を立てられたくらいで、会社を逃げだしたくない。

それって、その話は本当ですって認めるも同じだ。

それじゃなくても和家CEOは人妻を誑かす最低男、という噂も流れている。

私だけならいいが、和家さんにまで嫌な思いをさせたくない。


「……今からさらに、つらい思いをするのに?」


眼鏡の奥から私を見つめる彼は、あきらかに私を心配している。

会社での状況を知っている……というよりも、少し考えればわかるか。


「それでも、です。

逃げだすのは嫌」


「わかった」


伸びてきた手がぎゅっと私を抱き締める。


「でも無理はするな。

少しでもダメだと思ったらすぐに言え」


「はい」


和家さんは優しい。

私は本当にこんな優しい人に、縋ってもいいのかな……?

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