第4話

「……夢じゃない」


目が覚めたら広いベッドの上だった。

自分のマンションとは言わない、せめて安ホテルの硬いベッドの上であってほしいなどという私の願いは無残に打ち砕かれた。


「いや、顔を洗って完全に目が覚めたら……って可能性はないよね……」


我ながら往生際の悪い自分に自嘲し、洗面所へと向かう。

しかし通過しようとしたリビングで信じられないものを見て、足が止まった。


「おはよう」


私に気づいた彼が、読んでいた新聞から顔を上げる。


「お、おはようって、なんであなたがここに……!」


オートロックだから鍵はかかっているはず。

そして部屋の鍵は確かに昨晩、テーブルの上に置いて寝た。

なのにどうして昨日の彼がここにいるの!?


「なんでって、今日は観光に連れていってやると約束しただろ」


私は怒っているというのに彼は平然と、また新聞へ視線を戻した。


「ほら、顔を洗ってこい。

準備が済んだら朝食を食べに行こう」


「昨日も言いましたけど、私はあなたのお世話になる気はこれっぽっちもないですから」


「いいから顔を洗ってこい。

僕は君が起きるのを待ちくたびれて、腹が減っているんだ」


「それはなんか、すみません……」


つい謝ったが、これは私が詫びなければいけないのか?

しかも彼の顔は新聞から上がらず、私のほうをちっとも見ない。


「あーもー、腹が減って死にそうだー」


わざとらしく言い、ようやく私の顔を見た彼は、右の口端だけをつり上げてニヤリと笑った。

からかわれた、そう気づいて頬がカッと熱くなる。


「……意地悪ですね、あなたは」


「そうか?」


軽く言って今度は、彼は新聞を畳んだ。


「いいからほら、顔を洗って着替えてこい。

いつまで経ってもしないというのなら、僕がやってやるが?」


「けっこうです!」


本当に実行されそうで、とっとと洗面所に逃げ込む。

なんなんだろう、あの人。

ヤるのが目的ならまだ理解できるが、昨晩は私をおいてさっさと出ていった。

そして今日は朝から、朝食を食べに行こうと私を待っている。


「……ほんと、わかんない」


はぁーっと私の口から落ちていったため息は、どこまでも憂鬱だった。


着替えて寝室から出てきた私を見て、彼がひと言発する。


「地味だな」


それはぐさっとナイフになって私の胸に突き刺さった。

お洒落だと思って買った、シンプルなフレンチスリーブの黒ワンピース。

でも私が着たらいまいちになるのはなんでだろう?

いつも、そう。

雑誌やマネキンを見ていいなと思っても、私が着ると野暮ったくなる。


「予定変更だ、朝食を取ったら服を買いに行こう」


「だから、私はあなたのお世話になる気はっ」


「これ」


にっこりと笑った彼の手には、パスポートが握られている。


「返してほしいのなら、僕に付き合おうか?」


「えっ、あ!?」


慌てて自分の鞄を確認するが、パスポートが見当たらない。

ついでに、財布も。


「ド、ドロボー!」


怒りで、わなわなと身体が震える。


「言いがかりだな。

付き合ってくれたら返すって言ってるだろ」


しかし涼しい顔で彼は、挑発するかのようにパスポートを揺らした。


「……なにが狙いですか?」


レンズ越しに真っ直ぐに、彼の細い目を見据える。


「なにが狙いって酷いな。

僕はただ、君をものにしたいだけだ」


彼の手が伸びてきて、頬に触れた。


「……僕は君が欲しい」


私を見つめる瞳は、艶やかに光っている。

それに捕らわれたかのように目は逸らせない。


「しかし、無理強いはしたくない」


ふっと淋しそうに笑い、彼が私から手を離す。

それで身体から力が抜けた。


「だから君がここにいる間、僕に堕ちてくれるように精一杯頑張るよ」


立ち上がる彼を黙って見上げる。

この人はどうして、そこまで私に拘るのだろう。

ただの、行きずりの女に。


「ほら、朝食を食べに行くぞ。

僕は腹が減ってると言っただろ」


彼が私に向かって手を差し出してくる。

その手を無言で見つめた。

夫になるはずだった男と別れた翌日に、違う男の手を取るほど軽い女ではない。

けれど彼には一宿の恩がある。

それにここは誰も知らない異国の地。

あの人を忘れるためにほんの少しだけでいいから――他の人に縋っても許されるだろうか。


「そうですね、人質……この場合、モノ質?取られちゃいましたし」


彼の手に私の手をのせる。

ここにいる間だけ。

彼に夢を見させてもらおう。


彼と一緒にホテルを出た。

今日も移動はリムジンだ。


……彼って、いったい何者なんだろう?

今日はオフなのかアロハシャツになっているが、それでも気品が溢れている。

ゆで玉子のようにつるんとした肌は髭が生えるかどうかも疑わしい。

柳の葉のように細く切れ長な目、少し高い鼻に整った唇。

昨日と違い黒縁眼鏡になっているが、それがいいアクセントになっている。


「ん?」


彼の首が僅かに傾き、じっと見ていた自分に気づいて、顔を逸らす。

……観光、ではないみたいだし、仕事?

なんの仕事なんだろう。

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