第3話

「降りろ」


「あっ」


追い出されるように車を降ろされる。


「こい」


どんどん歩いていく彼を慌てて追う。

すれ違うホテルスタッフのほぼ全員が、彼に頭を下げた。

真っ直ぐにエレベーターに向かい、乗る。


「あの……」


エレベーターの中、彼は壁に寄りかかり腕を組んでなにも言わない。

どこに連れていこうというんだろうか。

彼はいい人そうに見えたが、本当に私は騙されていた?

それならそれで、かまわない。


「入れ」


彼が私を連れてきたのは、スイートルームだった。

ここに泊まっているんだろうか。

リムジンに乗り、身に纏うのは仕立てのよさそうなスーツ。

いまさらながら彼の正体が謎だ。


「ハワイ滞在中、ここに泊まるといい」


「えっ、私、お金ないですから……!」


この旅行代と新居への引っ越し費用で、かなりのお金を使った。

それにあの人と別れた今、帰国したら新しい家を探して引っ越ししなければいけないし、少しでも節約したい。


「ハワイ滞在中の費用は僕が全部見てやるから心配しなくていい」


ソファーに座った彼が私へと目を向ける。

そこに座れという意味だと気づき、L字型ソファーに距離を取って腰を下ろした。

すぐに彼が身体をずらし、距離を詰めてくる。


「そんな、見ず知らずの方にご迷惑をおかけするわけには……!」


次の瞬間、いきなり唇が重なっていた。

目を閉じる間もなく、彼の顔が離れていく。


「これで君と僕はキスをした仲だ。

見ず知らずではない」


「……最低」


ぐいっと唇を拭い、思いっきり睨みつける。


「そんな顔もできるんだな。

ますます気に入った」


しかし、彼にふふっとおかしそうに小さく笑っていて、まったく効いていなかった。


「この理由が気に入らないというのなら、今、君の唇を無理矢理奪った償いとしてハワイ滞在中の費用を僕がみてやる。

それならどうだ?」


どうだ?もなにも、レンズの向こうから私を見つめる瞳は、これで文句ないよなと有無を言わせない。


「なんでそこまで、私の面倒を見たがるんですか?」


出会ったのはつい少し前。

なのにどうして、ここまで彼がしてくれるのかわからない。


「君が気に入ったからだ。

それ以外に理由はない」


きっぱり言い切った彼は、いっそ清々しかった。


「だから僕は君を甘やかせたい。

君も僕に甘えればいい」


彼がどうしてそこまで私を気に入っているのか、やはりわからない。

ただ、私は身も心も疲れ切ってきて、今から安ホテルを探す気力がないのはわかる。

なら、今晩だけ。

今晩だけ、彼に甘えるのは許されるのでは?

それに、騙されているならそれでもいいと思うほど、自暴自棄にもなっていた。


「じゃあ、今晩だけ。

お言葉に甘えてここに泊まらせていただきます。

明日にはホテルを探して出ていきますので」


彼に向かって頭を下げる。


「今晩だけと言わず、ここにいる間ずっといればいい」


ふっと唇だけで彼は面白そうにふっと笑った。


「そういうわけにはいかないので」


「まだ断るのか。

いいねぇ。

さらに気に入った」


彼の美しい指先が私の顎を持ち上げ、視線を合わせさせる。


「僕は絶対に、君をものにしてみせる」


じっと私を見つめる瞳は、そのレンズがなければやけどしそうなほどに熱い。

なにが彼のそんなスイッチを押したのか考えるが、思い当たる節はなにもなかった。


「疲れているだろ?

今日はもうゆっくり休むといい。

明日は観光に連れていってやる」


ふっと笑った彼は、とても優しげに見えた。

おかげで心臓が、とくんと鼓動した。


「あの、だから」


彼が立ち上がり、スーツを整える。


「ああ、腹が減ってるよな。

ルームサービスでなんでも取るといい」


「それくらいは、自分でなんとかできます」


ドアに向かっていく彼を追う。


「だから、僕がこちらにいる間の費用、全部持つって言っているだろ」


「そこまでお世話になるわけには」


「ああもう、うるさいなっ」


いきなりぴたりと彼が足を止め、顔をぶつけそうになった。

くるりと振り返った彼が、私を見下ろす。


「まだガタガタ言うなら、そのうるさい唇塞いで、今度はベッドへ連れていくが?」


すぅっとレンズの向こうで彼の目が細くなる。

それは冗談には見えなくて、一歩後ろへ下がっていた。


「あ、それは、ちょっと」


「そうか、残念だ」


その声は心底残念そうで、さらにまた一歩下がった。


「なにも考えずになんて無理だろうが、ゆっくり休め。

おやすみ」


彼の足が一歩、私のほうへ距離を詰め、その意図に気づいてまた一歩下がる。


「それは、やめてください」


寄ってきた顔を、手で押さえた。


「ケチ」


ケチとか言われても困る。

しかし彼はそれ以上迫る気はないらしく、ドアノブに手をかけた。


「じゃあ明日。

おやすみ」


彼が出ていき、パタンと閉まったドアを見つめる。


「……なんか、疲れた」


これは、ハワイまできて挙式直前だった彼と別れたからだけの疲れとは思えない。

もしかして私は、神様からとことん見放されているんだろうか。


「……お風呂入って寝よ」


うん、それがいい。

これは全部夢で、目が覚めたらマンションの、自分のベッドの上だ。

きっとそうに違いない。

そう信じて寝たんだけど……。

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