第7話 真紅の焔② 胸に眠る力

上半身は女性、下半身は蜘蛛の姿。先程から冷笑している、この敵は、アラクネと名乗った。


アラクネはルカを仕留めようと、今度は全力でその巨大な脚を高く振り上げた。


脚が振り下ろされ、地面には衝撃が走り、砂煙が舞う。


しかし、狙いは外れ、ルカの顔面のすぐ横に脚がめり込んでいた。


その隙に、ルカは体を起こすと、アラクネと距離をとる。


だが、ルカの体は半ば限界に近かった。すでに彼の胴体はアラクネの脚の一撃で痛めつけられ、全身には深い裂傷が刻まれていた。血が止まらず、視界もぼやけ始めていた。


そんな状況にも関わらず、彼の心に浮かんだのは不思議なことにノエルのことだった。


いつも彼女の治癒に助けられていた。本当は無能聖職者だなんて思ったことは一度もなかった。彼女がいなければ、自分はとっくに死んでいただろう。そう、胸に突き刺さっていた。


「そうか。俺はずっとノエルに守られていたんだ」


ルカの頭の中では、ノエルと過ごした時間がいくつも映し出されていた。


「俺はずっと、ノエルを守れるような剣士になりたかったんだな」


放心した顔で、ルカは無意識に心の奥に眠る気持ちを呟いていた。


「なにぃ? また聖職者の話? 坊やも未練がましい男ねぇ」


アラクネは嘲笑を浮かべながら、ルカに近づいた。その怪しい笑みは、彼女の次の言葉を予告するかのように、冷たく光っていた。


「じゃあ面白いことを教えてあげるわぁ。滅多に知ることができない豆知識よぉ」


アラクネは、ルカの耳元に顔を近づけ、ささやくように言った。


「聖職者ってねぇ。あんまり美味しくないのよ」


その刹那、激しい轟音が鳴り響いた。


アラクネは何が起こったのか理解できず、動きを止めた。しばらくしてから、彼女は自分の左肩に奇妙な違和感を感じた。


アラクネが、その違和感の方へゆっくりと目を向けると信じられない光景を目にすることとなった。


左肩に綺麗な円形の穴が空いている。


「!? 一体なにをされたの!? まさか、新手!?」


アラクネは周囲を見渡し、誰かが現れたのかと警戒した。しかし、辺りに気配はなく、彼女は再びルカに視線を戻した。


「それじゃあ……この坊やの仕業だって言うの!? ……! それにこの焦げたような臭いは……」


うろたえていたアラクネだったが、次第に自信を取り戻したように高笑いを始めた。


「なるほどねぇ、坊や。あなた、炎魔法が使えるのね? 油断しちゃったじゃない」


ルカは、微動だにせず無表情のまま何も言わずにアラクネを見つめていた。


「種明かしにはちょっと早かったんじゃないかしらぁ? もう一発も当たらないわよ」


「これから坊やは、足掻いても足掻いても手も足も出ず、何もできずにあたしに食べられるのよ」


そう言うとアラクネは、胴体から無数の糸を吐き出した。


たちまち糸は、ルカの体を縛り上げ、自由を完全に奪った。


しかし、ルカは動じる様子はなく、ただアラクネを見ているだけだった。


「んふ。その体勢からは、もう何もできないわねぇ。って、もうすべてを諦めてしまったようね。無抵抗の男は、好みじゃないのだけれどぉ」


「もう終わらせるわねぇ。あたしも興が醒めてきちゃったわ」


「じゃあね、坊や。あの世でその子に再会できることを祈りなさい」


アラクネは冷笑を浮かべ、最後の一撃を放つべく右腕を振り上げると、ルカの頭めがけて振り下ろした。


しかし、


「フレイム」


ルカが呟くと同時に、アラクネの全身を一瞬で炎が包んだ。


炎は、まるで意志を持つかのようにアラクネを逃がさぬよう、襲い掛かった。


「あぁぁぁぁぁ! 何よこれぇぇぇ! な、なんでその体勢から魔法がぁ!」


彼女は絶叫したが、炎は消えることなく、アラクネに絡みつくように燃え盛る。


「それに! 消えないわぁ! この炎は何なのよぉぉ!」


「この! 体の内側が焼けるような……感覚はぁぁ! 苦しいじゃないのぉぉ!」


アラクネは足掻きながら、必死に炎を振り払おうとした。


その光景は、ルカ自身も理解できずにいた。


ルカは、たしかに炎魔法を唱えた自覚はあった。


しかし、なぜこんなにも自分が放った炎が、荒々しく、禍禍しく、こんなにも真紅に輝いているのか。


こんなものが、ただの炎魔法ではないことは、すぐにルカにもわかった。


ルカが困惑して立ち尽くしていると、アラクネはその隙をついて後方へ大きく跳躍した。


「こ、こんなことができる人間がいるなんてありえないわ……! く、悔しいけれど、早く、あの方へお伝えせね、ばぁぁ!」


アラクネは、そのまま森の中へ逃げ去ってしまった。


だが、今のルカには追う余力は残っておらず、その場に膝から崩れ落ちた。


戦いが終わったことをようやく理解する。緊張が解けたためか、全身の力が抜けていくのを感じる。


けれど、ルカにはわかっていた。この脱力が、疲労だけが原因ではないことを。


ノエル――。


「ごめん……」


ルカが呟くとせき止めていた感情があふれてきた。


「ごめん……ノエル……お前を救えなかった」


その後はただ、ひたすら後悔と謝罪を叫び続けた。


「俺が! こんな非力じゃなければ!」


「俺が! もっと強ければ!」


誰もいない街道をルカの声だけがこだまする。


「ノエルを! 守れたのに! ノエルを――」




「ルカ、私がどうしたの?」




ルカは、まるで夢から醒めたような顔でハッとした。


聞き間違いだったのか? 自分の幻聴を疑った。


でも確かに、そこにその人は立っていた。


不思議そうな顔でルカを見ている。


純白のローブに銀色の髪。


「ノエル……?」


ルカは信じられないような顔で、しばらくノエルの顔を見ていた。


「どうしたのさ、ルカ。私の帰りが待ちきれなかったのかな」


ノエルはルカを少しからかいながら、近くに歩み寄っていった。


そして、全身に大怪我を負ったルカに、ヒールを唱える。


彼女はいつもの優しい笑顔をしていたが、どこか寂しそうな顔にも見える。


「ルカ。魔法を使ったんだね」


ノエルの問いに、ルカは答えられず、ただうつむいた。


「ルカが魔法を使ったのは、私のためだったんだよね」


ルカから返事はなかった。それでもノエルは、


「ありがとう、ルカ。でも大丈夫。私は生きてるよ」


ルカを優しく抱き寄せた。


「ごめんね。ずっと私の名前呼んでたの、街道中に丸聞こえだったんだよ」


「ルカは、私を守れるようになりたいって思ってくれてたんだね。びっくりしちゃったよ」


「ずっと一緒にいたのに、ルカのことわかってなかったなぁ」


そう言うとノエルは、姿勢を正してルカと正面から向き合った。


「でも私はもうルカに守られてるよ」


そんなわけないだろ。とても小さな声でルカは答える。


小さく反論されたノエルだったが、笑顔は崩さなかった。


「本当だよ。本当に。私が困ってる時は、いつも君に助けられてるんだ」


「今はわかんなくても、いつか気づくかもしれないね」


ノエルは優しく微笑んだ。


ルカは、ただ、彼女の言葉が心に響き、胸の奥に温かさが広がっていくのを感じた。





そして、しばらく静寂が続いた後、


「ルカ。私は、やっぱり君には魔法は使ってほしくないんだ」


ノエルは、ルカに静かにそう伝えた。


ルカは、何も言わず黙ってノエルの話を聞いている。


「ルカのマナはね。回復しないんだよ」


ルカは、さすがに驚愕と戸惑いが顔に表れた様子だった。それでも、ノエルの話を遮らないよう聞いている。


「ルカは、そういう体質なんだ。君のマナには限りがある。だから、できるだけ魔法は使ってほしくないんだよ」


自分の体質の話をきいて、ルカも動揺しているようだった。


けれど、ルカは真剣な顔で、何も言わずに頷く。


ノエルは安心した様子で、ルカの顔を見ていた。


そして、おもむろに彼女は自分の首元に手を持っていくと、


「じゃあ、ルカには私の大事なお守りをあげるね」


そう言って、首元からネックレスを外した。


そのネックレスには、チェーンに抱かれるように美しい金の指輪が繋がれていた。


その指輪は精巧な装飾が施され、光を受けて優美に輝いていた。


そのままノエルは、ルカの首へ手を運ぶと、そのネックレスをつけてやった。


「これはルカを守ってくれるお守りだよ。だから外さないようにね」


「これ……いつもノエルが大切そうにつけてるやつだろ」


「そうだよ。だから君にも大切にしててほしいな」


それほど信頼されてるんだろうか、ルカはノエルの気持ちを汲み取るように、


「わかった」


と、力強く返事をした。


その返事に、ノエルは満足そうに微笑み、手を差し伸べた。


「よろしい。それじゃ帰ろっか」


ルカは、今よりもずっと強くなることを静かに胸で誓った。


ノエルは、そんなルカを見て彼を信じ続けようと心の中で決めた。


それぞれ決意を胸にしながら、教会へ向かって二人は歩き始めた。







「くそがぁ……! こんなはずでは……」


アラクネは、痛手を負いながらも、なんとか逃げ延びていた。今は街道沿いの森で、身を隠している。


炎から逃れることはできた。しかし、体の傷以上に精神的にダメージを負っていた。


怒りと恐怖が交錯し、彼女の頭は混乱していた。


「い、一刻も早くあの方の耳に届けなければいけないわ。そ、そのあとは軍を率いて……忌々しいあの坊やを街もろとも……蹂躙の限りを……」


アラクネは息を切らしながら呟いた。ルカの異常な力を、仲間に伝えなければならない。そう思いつつも、彼女の脳裏には別の思惑が浮かんでいた。


「む、むしろ……。これは手柄では……な、ないかしら!? あの方も……これであたしを……! 幹部に推薦……」


その思考に一瞬の希望を見出した瞬間、不意に背後から声がかけられた。


「おやぁ。何かと思えば、鬱陶しいクモがこんなところに隠れてるではありませんかぁ」


アラクネは、目を見開いて驚いた。まったく背後に立たれた気配などなかったのだ。


「お、お前は……行商人のミストじゃないのよ! ただの商人があたしに何のようだって言うの!?」


「左様ッ! 行商人のミストでございます!! なにやら不愉快な気配を感じ取ったものでしてねぇ。 どんなものかと思えば、ただクモだったようで拍子抜けしてたところでございます」


「あ、あたしをコケにしてるつもりかしらぁ?」


「滅相もない! 私は、クモ一匹になどわざわざ興味を示しませんのでねぇ」


「ちっ……こ、こうしてる場合じゃないっていうのに……めんどくさい男ねぇ」


アラクネは、ただの商人に絡まれていることを疎ましく感じていた。


そして明らかに焦っていた。


「す、すぐにでもルミエラの坊やに報復する準備をしたいところだけど、お前から排除しないといけないようねぇ!」


「ほぅ。ルカ殿にやられたのですか?」


ミストは、初めてアラクネの話に興味を示した。


「うるさいわねぇ……。あの坊やは普通じゃないのよぉ。早く、あの方に……」


「あの方とは、貴女の上官である幹部の方ですかねぇ?」


ミストの飄々とした態度に、アラクネも苛立ちを覚え始めていた。


「まだ万全じゃないのだけどぉ。さっさとお前を殺した方がよさそうねぇ!」


「ふむ。私を殺す、ですか」


アラクネは胴体から無数の糸を、ミストに向かって放出した。


しかし、一本たりともミストにかすりはしなかった。


「……!? 避けられたって言うの!?」


いや、ミストは攻撃を避ける動作はとっていなかったのは彼女もわかっていた。


アラクネは、ミストはまるでそこに存在しないかのような感覚に襲われる。


その間、ただミストは悠然とアラクネの前に立っていた。


「貴女はなんだか、放置しておくと余計なことをしでかしそうですねぇ」


その言葉とともに、ミストは彼女の背後に瞬時に回り込んだ。


アラクネはその動きに気づくことさえできず、背中に寒気が走った。


先ほどまで強気だったアラクネも、さすがにこのミストという男に恐怖を感じつつあった。


そして、アラクネは振り返ってしまった自分自身を呪った。


「おぉっと。激しく動くと、仮面がずれてしまうのが厄介ですねぇ」


そこには、いつも仮面が隠されているミストの素顔があった。


それを見てしまったアラクネは、もはやぴくりとも動けず、ただただ委縮していた。


「なんで……お前がここに……」


ミストは素顔でにっこり笑うと、優しく答えた。


「知らなくて結構です。それでは貴女には消えていただくとしましょう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る