第5話 始まり
彼が仕事を辞めた。
でも、また新しい仕事をしたらいい。
でも、そんな考えは甘い考えだったのかもしれない。
彼は思いもしない方向に動き始め、それは私の理解を超える方向に動き出す。
彼は仕事を辞めてから、私の送り迎えをするようになった。
それは、徐々にエスカレートしていき、仕事中まで監視するかのようにガラス越しに私を見ている彼は恐怖以外の何者でもない。
「浮気するかも知れないから、見張っている」
有り得ない事を想像してひたすら私に付きまとう彼。
そして__
仕事の話であろうが、目を合わせただけであろうが、彼以外の男に接触すると暴力を振るわれるようになっていった。
もう、ここまで来てしまったのならば………。
彼と別れたい。
彼にいつ殴られるのか、怯え。
彼の機嫌がいつ悪くなるのか、怯え。
まともな生活すら出来ず、怯え、怯え、怯え。
でもさ、彼に別れ話なんてしたら殴られるんだ……
怖い。怖い。怖い。
これが、今現在の私の現実。
願う事は、ひとつだけ。
彼が、私を殴らないでいてくれたら、私は頑張れそうな気がします………。
でも、それが叶わないなら………。
彼から逃げるしかない。
私はスヤスヤと眠る彼を確認すると布団から出てトイレに行ったふりをして彼の様子を伺う。追いかけて来る気配は無い。
彼は、本当に爆睡しているらしい。
今だ。
今しかない。
今なら、彼から逃げる事が出来る………。
でも…………、バレたらどうなる?
ガタガタと震える手で玄関のドアを音を立てないように開けると靴を手に持ったまま、アパートから脱出した。
もし、彼が起きて…………、
私が居ない事に気付いたら………。
追いかけて来て、捕まって、殴られるだろう。
怖い__
けど、このまま彼と一緒に暮らし続けるのはもっと怖い。
アパートから少し離れると、靴を履き全力で走り出した。裸足で外を走ったのなんて、いつぶりだろう……
そんな事を考えながら、辺りを見渡した。
ここは、田舎の裏道。
街灯なんてほとんど無い、真っ暗闇の中。
そのうち、民家も無くなり畑と林だけが並ぶ道に辿り着く。ここまで来たら本当に真っ暗で、星の明るさと、たまに通る車のライトだけが、私に灯りをもたらしてくれる。
まるで、幽霊でも出そうな不気味な道が続くが、今は幽霊に怯えている余裕も無い。
私が今一番怖いのは、彼。
彼に見つからないように、更に暗い裏道に入り、ひたすら実家を目指し歩いた。アパートから、実家まで歩くと2時間近くは掛かるだろう。
でも、所持金7円で、スマホを彼に破壊された私には、歩く以外の選択肢なんて無い。
歩く度に彼に、殴られ続けた太ももがキリキリと痛む。その度に、殴られた事を思い出して瞳に涙が溜まっていく。
私の、腕、背中、太ももという、普段人目に付かない場所はまるで紫色の花が咲き乱れたような色に変色している。
__これは、彼に憎まれた証なのでしょうか?
そんな痣の痛みを感じて、彼の事を思い出す。
出会った頃の優しい彼。
何度も、何度も「俺の事好き?」って聞いて来る彼。優しく抱きしめてくれる彼。
不思議だな。
さっきまで、怖くては怖くてたまらなかった彼に会いたくて堪らない。
確かに、私を殴るし、仕事だってあんなんだけど………。
彼は、何時だって私と一緒に居てくれた。
私から離れないで居てくれた。
でも、このままずっと彼と一緒に居たら、そのうち私は彼に殺されてしまう気がして、怖いんだ。
たから、離れないといけない。
彼とは一緒に居る事は出来ない。
そう自分に言い聞かせながら、真っ暗な夜道をヒタヒタと歩き続けた。
真っ暗闇の中、たまに通る車のライトが私に安心をくれる。ほら、また車。
真っ暗なのは、苦手だからちょっと有り難い。
でも、オカシイ。
その、車は私の後ろで止まり、ドアが開く音がする。
「あゆみ!!お前何してるんだよ」
ヤバい。ヤバい。ヤバい。
この声は紛れも無く彼の声だ。
でも、なんで車があるの?
体中から、冷たい汗が溢れる。
とにかく、逃げたほうがいい?
でも、どうせ捕まってしまうだろう……
逃げて彼を逆上させてしまうくらいなら、逃げたりしない方がいいんじゃないか。
これからの事を考えたら、逃げるという選択肢はバラバラに消えてしまう。
私は、彼を見つめたまま一歩も動く事が出来ずに、ただただその場に立ち尽くした。
「ねえ、あゆみ。俺から逃げようとしたの?」
「俺の事、嫌いになったの?」
彼は、私の目の前に辿り着くと、大きく腕を振り上げて、私の二の腕を殴り続けた。
「なんで、俺から逃げるんだよおおお!!!」
彼の表情からは、理性の欠片も感じられない。怖い。怖い。怖い。
何か言って彼の機嫌を損ねたらお終いだ。
「ご、、、ごめんなさい、ごめんなさい、、、」
だから、謝る事しか出来ずに泣き続ける。
彼が悪いとか、私が悪いとか、そんな事はどうでもいいから。
もう、殴らないで・・・。
痛いの。怖いの。
次は、どこを殴られるのだろうか?
そう、考えたら怖くて仕方がないんだ。
どれくらいの時間彼に殴られただろうか?
その時間は恐ろしい程に、長く、長く感じた。彼は私を殴り終えると、私の体を優しく包み込む。
「あゆみの事殴ってごめん。でもさ、あゆみが悪いんだよ?だって、俺から逃げようとしたでしよ?俺は、こんなにあゆみの事が好きなのに!あゆみが居なくなったら生きていけないのに!あゆみは俺の事裏切るの?」
私は、震えながら頭を横に振った。
私。本当は「じゃあ、殴らないでよ。そして、仕事もちゃんとして」って、言いたかったんだ。でも、自分の意見で彼を怒らす事が怖くて本音なんて言えない。
彼がどんなに泣いてても、笑っていても、私は彼が怖いから。
彼が乗っていた車は、隣の部屋に住んでいる友人に借りたらしい。
「今度逃げたら許さないからね」
そんな台詞を吐き捨ててると、彼は友人に車の鍵を返しに行った。
許さないからね
許さないからね
許さないからね
彼の台詞を思い出す度に心が震える。
許さないって・・・
どういう事なんだろう。
何故かなんて分からないけど、
彼に殴られ続け、顔が、体が、腕が、足が、どす黒い紫色に変色してしまった自分の姿が頭の中に浮かんで、消えた。
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