第3話 松田きよかは、さやと共にグリ下で歌う
さやは、なんとミュージカル公演の三日前から連絡が取れなくなってしまったという。
今回もさやが主役であるので、真面目で責任感の強いさやが、自分の都合で一方的に連絡を断ついうことはあり得ない。
さやは、骨折しても練習を休まないほどの熱心さのある女優だった。
さやは以前、テレビで母親松田きよかのことを
「環境の変化にとまどうこともあるけれど、私のために毎朝五時に起きてお弁当をつくってくれる母を尊敬しています」
無理もなかろう。松田きよかは、三度目の結婚をしたのだから。
さやが、松田きよかの顔を潰すなんてことは、考えられない。
当時さやには、付き合っている男性がいたという。
仕事のスケジュールは二年後まで埋まっているというのに、一体どうしたことだろう。
マスメディアは、さやが行方不明になった事実を、不安感をあおるように書き立てた。
芸能界で成功した母子を陥れるかのような、表現もみられた。
翌日、大阪難波のグリコ看板前ー通称グリ下で少女の死体が発見された。
私はスマホの画面を見て驚いた。
なんと、さやに瓜二つの同年代の少女だった。
少女は、地方出身でさやに瓜二つの容姿を、周囲からからかわれていたが、逆にさやのことを知りたくなった。
少女は、好奇心半分でさやのミュージカルを一度見にいった。
美しい声で堂々と歌う姿と、共演者を生かすような演技にすっかり魅了した。
少女は、さやに憧れるようになり、歌をくちずさむようになった。
しかし都会にでてきた少女を待ち受けていたものは、芸能界というきらびやかな世界を装った風俗まがいの仕事だった。
「このプロダクションは、大手プロの傘下にあたる有望プロである。
いかなるスターでも、最初はアダルト関係からスタートしたものだ。
今をときめくミュージカル女優も、過去にはみな、こういう道を辿ってきたんだ」
などという甘言に騙されてしまったのである。
確かに四十年昔までは、美〇純のように、元日活ポルノスターの人もいたことは事実である。
亡くなった飯〇愛も、もとはAV出身だったが、飯島氏はそのことを心に病んでいた挙句、ポックリ死したという。
プロダクションに騙されてしまった少女は、エロチャットを引き受け、客の要望に答えられなかったら、損害賠償、違約金五百万円を弁償してもらう、なんなら、親の元に取りにいくぞと脅され、泣く泣く引き受ける羽目になった女性もいる。
しかしついに耐えられなくなり、グリ下に逃亡し、野宿生活を送っているうち、エロサイト専門の常連だった中年男性客に見つかり、レイプ寸前の時点で刺殺されかかったという。
そのあと、逃亡中だったさやが、第一発見者としてそのことを警察に通報したことから、さやの行方が判明した。
母親松田きよかは、さやを抱きしめ
「戻ってきてくれて有難う。心配するじゃないの」
と言ったあと、さやの背中をポンポンと軽く叩いた。
私は、一見きらびやかな世界にいる筈のさやでも、逃亡したいほどの深刻や悩みと不安を抱えているんだなあと、ため息のつく思いだった。
一方、さやの母親松田きよかは、還暦寸前になったころ、やはり声と体調の変化を自覚していた。
アメリカではジャズでナンバーに入るほどのCD売上があったが、日本ではもう注目される対象ではなくなっていたのも事実である。
喉を酷使していたせいか、デビュー当時のような張りのある声はでなくなっていた。もうそろそろ引退したらという声がでてきたのである。
それに加え、コロナ渦の影響で、活躍の場が減少しつつあったきよかは、徐々にさやを頼りにするようになっていった。
さやはグリ下の殺人事件以降、今までは他人ごとだと思っていた青少年問題に関心をもつようになり、それをテーマにしたミュージカルを上演したいなどと言い出すようになった。
きよかは母親の立場からは、反対だった。
さやはお嬢様育ちで、金銭に不自由したこともなければ、ヤンキーと呼ばれる人種とは無縁の世界で生きてきた温室育ちである。
そんなさやに、グリ下に集まる人の苦悩や心の傷などわかる筈がない。
また、やはり松田きよかの娘であることで、ねたみそねみを受けるに決まっている。
最悪の場合、ドラッグや売春などに巻き込まれ、取り返しのないことになる羽目になるかもしれない。
母親のきよかは、さやのために、知り合いのドキュメンタリー作家に頼んで、グリ下の取材を依頼していた。
グリ下に集まるのは、たいてい二十歳以下の未成年だった。
いじめなどの不登校などで家出を繰り返し、服装もどこか薄汚れていて、骨の上に皮膚が乗っているほどやせ細り、筋肉のない持久力や耐久力のない人が多かった。
たいていの人は、コロナ渦も相まって、家庭は地獄だと絶望的なため息をついていた。
なかには、父親の顔や名前すら知らない人もいる。
また、母子家庭で母親はパートで働いているが、大した収入などありはしない。
実の親が再婚することになった、義理の父や母とも折り合いが悪いというケースも少なくはない。
なかには、父親がギャンブル依存症で母親にDVを振るうなどという悲惨なケースもあった。
そういった未成年者を救い出すNPO法人は存在はするが、足りない状態であり、またそれを悪用してやろうというとんでもない輩がいるのも事実である。
弱い立場の人間を、麻薬や売春に利用しようとする大人がいるのは、昔から周知の事実である。
ちなみに、さやも母親きよかも、ギャンブルにはまったく関心がないというよりは、性にあわなかった。
芸能界そのものがギャンブルである。
仕事が増えて売れてきたと張り切っていると、今度はスキャンダルという爆弾が頭上に落ちてくる。
マスコミはひっきりなしに追い回し、ファンすらも寝袋を持参して追い回すほどである。
これ以上の刺激は、苦労としか言いようがない。
松田きよかは、今までの人生のなかでそういった悲劇に遭遇したことはなかったが、深く感銘し、そのことをテーマに作詞を始めた。
「白い野百合であれ」
ひっそりと野原に咲いている 一輪の大きな百合の花
誰にも注目されることもなく
雨にも負けず 風にも負けず 埃にまみれることもなく
白い微笑みを浮かべ 色あせることなく 野を飾っている
そんな生き方ができたら どんなに誇らしいだろう。
ときには 風に揺れながらも 決して折れることなく
しなやかに 緑の葉に包まれ 太陽の光を浴びながら
人生をおくってほしい
この詩はきよかがさやのための作詞である。
さやにはきよか同様、強くたくましく生きてほしいという願いを作詞に込めたつもりである。
思えば松田きよかほど、スキャンダルにまみれた歌手は珍しいだろう。
ヒットチャートに名前が出て、注目を浴びるに比例して、女性週刊誌は、昔はヤンキーで三千円を踏み倒しただの、喫煙者であるだの、恋をするたびに、大っ嫌いきよか、淫乱女などと面白おかしいタイトルがあがったりする。
新人賞を競い合った男性アイドルのファンからは、階段の屋上から突き飛ばされたこともあった。
「ギャハッハッハ、真っ逆さまのバカ聖子」
という罵声とも嘲笑ともいえない甲高い少女たちの声を哀れなものとして聞いていた。
ここにきよかの強さがあった。
きよかは、ずっとヒットチャート一位を保ち続けていた。
デビューして二年目、母親を故郷から東京に呼び寄せた。
母親は、きよかが仕事で夜なかに帰宅しても、いつも玄関先で待っていてくれたのだった。
母親の入れてくれたカルピスを飲みながら
「私、〇ちゃんにこんな意地悪をされちゃったの」
母親はきよかの話を真剣な表情で聞いてくれたが、答えはいつもきまって同じだった。
「それじゃあ、あなたが人にそんなことをしなければいいでしょう」
相手を責めるわけでも、悪く言うわけでもなかったのは、きよかの芯の強さを見抜いていたからだろう。
きよかが、コンサート中に暴漢に襲われ、軽傷を負ったときもそれは同じだった。
「でも、その子の親も辛かろうに」
我が娘が軽傷を負わされながらも、決して相手を責めるわけでも、憎むわけでもない。
ここにきよかは、母親の強さを見たという。
さやには、ミュージカル女優としての才能と人気はあったが、きよかのような図太さやあっけらかんとした明るさは持ち合わせてはいなかった。
きよかは現場主義であり、現場で自分をネタとしたお笑いを要求されても、それに応え、逆にそれをネタとするような図太さと勘の良さを持ち合わせていた。
さやは、きよかよりは繊細で、傷つきやすい一面があり、声にもそれが現れていた。
さやは、口には出さなかったが、いつ自分の声がダメになり、人気が落ちるかという不安に常にかられていた。
もしそうなれば、尊敬する母親きよかの顔を潰すことになりかねない。
それを打ち消すように、骨折してもレッスンに励み、フリフリフリルのファッションに身を包んでいた。
しかしそんなことは、芸能人なら誰でももつ不安である。
きよかはそんなさやの心情に気付いていながら、さやの生き方が心配でたまらず、さやには口うるさかった。
きよかは母親から教わった料理を、さやにも伝授し、贅沢は許さなかった。
きよかもさやも、舞台で拍手喝さいを浴びるたびに、そのときは号泣するほど嬉しかったが、その山が越えると将来はどうなるのだろうという不安にかられていた。
ブームという山が過ぎ去れば、あとは必ず空虚がやってくる。
それでなくても、新人が追いつき、新しい時代をつくろうとする。
そうすれば置いてきぼりにされてしまい、半年もたつと世間からは忘れ去られてしまう。
この不安を乗り越えるためには、常に新しいものを取り入れていく以外には考えられない。
きよかは、さやが時折訪れるという大阪難波のグリ下にお忍びで行ってみた。
サングラスに大きなマスク、これでは誰もきよかと気づく人はいないだろう。
きよかは、ベテラン歌手に分類され、アイドル中心、若手中心の歌謡界からは露出が減っているからである。
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