第3話 木工室の主
一、
職員室。僕の嫌いな空間だ。僕も含めて先生方はみんな大人なので、生徒達と違い表立って誰かを攻撃したりなどはしないけれど、干渉は受ける。直接攻撃しない分、嫌味や皮肉、抗議の形をして遠回りに言ってくるので
人付き合いは、昔からあまり得意でない。とは言っても、子供ではないからある程度の処世術は身に付けているつもりだ。先生方とも普通に会話は出来る。
小学生の頃は人付き合いに苦手意識は無かったのに。思い当たる節があるとすれば、中学生の頃の出来事がきっかけだろう。僕は
今日は水曜で、職員会議の曜日だ。放課後に僕は木工室ではなく職員室に居た。
「六月第三週の職員会議を始めます」
校長のひとことがあって職員会議が始まった。
「えー、
期末試験の話題だ。七月に行われる期末試験の出題範囲は大体決めていた。昨年と同じ範囲を出題すれば良い筈だ。
「テスト範囲の見直しは大丈夫ですか」
僕が受け持つ一年A組の隣、一年B組の担任である
彼女とは昨年度も同じ学年を受け持った。初めて現場に立って右も左も分からない様子の彼女が放っておけなくて、同じ学年を受け持った
「テスト範囲は大丈夫です。でも、テスト作成などの事務作業などが増えてしまって時間外労働が増えています。何か改善した方がいいんじゃないですか」
彼女は
「これでも十分改善されています。これ以上となると難しいでしょう」
二年生を受け持つ先生が彼女に反論した。彼は僕より経験を積んだ先生だ。沖永先生と比べるとなると、経験は雲泥の差だ。
大先輩の彼に
……学校という組織は、前年を
職員会議は粛々と進み、期末試験から始まり成績処理、保護者面談、生徒指導……と話題は移り変わった。結局どれもが前年通りに、と言った結論になって何の実りも無い会議となった。こんな事の為に時間を拘束されるくらいなら、僕は自分の仕事を進めたい。学年だよりも書かないといけないし、自分の授業で使う
「
職員会議が終わって、木工室に戻ろうと席から立ち上がると、一年A組の副担任である
「はい、何ですか」僕は応じる。
「都築先生……
「ああ、あの子。いますね」
〝あの子〟とは僕が最近、課外活動で〝おはなし〟をしている生徒だ。
「言いづらいんですけど……最近、
げ、どこかで見られていたか。気付かれたとしたら、……いつだ? 朝、僕が朝礼を終えて木工室へ向かう時に先に来ていたあの子を見掛けたのだろうか。いや、安住先生が用も無く職員室から出るなんて聞いたことが無い。学年集会の時か? そういう時、僕がどの生徒にも分け隔て無い先生を
「いえ? そんな事はないと思いますけどね」僕は素知らぬ振りをした。彼女の言う通り、入れ込んでいると言えば入れ込んでいるのは確かだ。
しかし、僕と
「彼女は男子生徒の格好をしていますけど、女子生徒ですよ。男性教諭である都築先生が構いすぎるのは良くないと思います」
彼女は僕の話に耳を傾けず、一方的なコンプライアンスを僕と彼の間に振りかざしてきた。正義感ばかり膨れ上がった、頭でっかちでデリカシーの無い人だ。
「安住先生」僕は居住まいを正して言った。
「何ですか」彼女は僕が、すみませんでした、とでも言うのだと思った様子だ。
「彼は男子生徒の格好をした女子生徒
僕は
「今は難しい時代です。あなたほど人生経験のある方にこういう事を言うのは僕も心苦しいのですが、安住先生の今の物言いは流石にデリカシーに欠けると思いますよ。彼のアイデンティティを否定しないでください」
「それでも女の子の身体です。よくある、思春期特有のアイデンティティのゆらぎでしょう?」安住先生はしつこかった。
「関係ありません。彼は男子です。僕にはアイデンティティのゆらぎとも思えませんね。小学生の頃からそれで苦労したそうですし。第一、安住先生は専門家じゃないじゃないですか」僕は反論する。
「確かに私は専門家ではありませんけど……」安住先生の勢いが弱くなった。
「自分の受け持つ生徒がクラスに馴染めていないのを見過ごすのは、教師として正しい姿ですか」
「ですけど都築先生、」
こういう手合いには何を言っても無駄なので僕は
「ただひとつだけ、安住先生が男女関係無しに『さん』付けで呼ぶ先生で、僕は感謝していますよ」
そう言い残して立ち去ろうとした。どうせ僕も同じ穴の
「都築先生! どこへ行かれるのですか」
彼女がこうして食い下がるので、
「お手洗いです」
と少し厳しい口調で言った。彼女も流石に男性用トイレの中まで追ってくることは無いだろう。古いジェンダー観をお持ちのようだし。
二、
安住先生を振り切ってトイレに入ったけれど、特に用は無い。彼女を振り切る口実として「お手洗い」と言っただけだ。入っただけですぐに出ていくのも何なので、手を洗うことにした。手に少し埃が付いた感触がする。きっと僕のデスクが埃っぽいからだろう。普段はあのデスクにいないのだし。表面だけでもハンディモップで
それにしても安住先生は歳の割に元気な先生だ。よく知りもしない話に首を突っ込んであれこれと文句を付けるだけのエネルギーがあるのだったら、その事について知る為の時間に割いてほしい。あれではクレーマーと何ら変わらない。まあ、単に更年期なのだろうけれど、その
蛇口の栓を開けて水を出し、ぱしゃぱしゃと手を洗う。指先の傷に
「あ、都築先生」
個室から誰か出てきたようなので振り返る。
「わ、
丹羽先生。彼は一年C組の担任だ。理科担当で、僕よりは若い先生だ。彼も僕の横に並んで手を洗う。
「バタン! って強く扉を閉じる音が聞こえたから、何事かと思いましたよ。何かあったんですか」
丹羽先生は笑顔で僕に言う。明朗な口調が彼が話す時の特徴だ。声もよく通る。彼はいつもニコニコと笑っていて、掴み所が無い。彼は生物が専門で、普段から
「いやぁ、安住先生に捕まっちゃってさ。彼女ってばよく知りもしない事に首を突っ込んであれこれ文句言ってくるし話が長いから、『トイレに行く』って振り切ってきたんだよね」
僕は経緯を掻い摘んで丹羽先生に伝えた。
「何か風紀関係ですか? 安住先生、そういうのに一番うるさいですから」
丹羽先生は、はっはっは、と笑って言う。
「風紀関係と言えばそうなのかなあ……」僕は曖昧に肯定して「モテなさそうな先生に限ってうるさいですからね。全く、細かい事に目くじら立てるから行き遅れるんだよ」と溜息と共に吐き捨てた。
丹羽先生は一際大きな声で、あっはっは、と笑って
「安住先生に聞かれたら、丸一時間は説教されますね、それ! でも、都築先生ほどのモテ男が言うんだったらそうなんでしょうねぇ」
「僕がモテ男? そんな事無いでしょ」
トレードマークとなっているエプロンのポケットからハンカチを取り出し、手を
……頬が
「こんなくたびれた顔しててモテ男は無い、無い」鏡を見て思った事を丹羽先生に向けて言うと彼は
「でも都築先生、女性の先生の化粧が変わると真っ先に気付くじゃないですか。私も含めて他の男連中は誰も気付いてないのに。モテる男はよく気付くらしいですからね。ボクなんて、奥さんが前髪切っても気付かないくらいですよ」
とニコニコ顔で言った。
結構痛い所突いてくるな。僕がそういう事に
「ボクも安住先生に説教されないよう、襟を正さないといけませんねぇ! じゃ!」
と言い残して去っていってしまった。濡れた手は白衣で拭いていた。
僕は手を拭いたハンカチをポケットに仕舞い、改めて鏡で自分の顔を見てみる。
僕が中学生だった頃の顔は、あの子とよく似ていると思う。他人の空似なのだろうけれど、瓜二つと言ってもいいくらいだ。(見たくはないけれど)卒業アルバムを確認すれば、彼と同じ顔をした多少古めかしい写真が見付かることだろう。
違いを挙げるとすれば、僕の方が少し顎が鋭く、目も少し吊り上がっているところくらいだろうか。
こんなにもしげしげと自分の顔を見ていて、気恥ずかしくなったので鏡を見るのはやめてトイレから出ることにした。自分の顔を鏡でじっくり見るなんて、ナルシシストじゃあるまいし誰かに見られたら恥だ。
トイレから出て木工準備室に向けて歩き出した。職員会議のあった今日は部活動は行われておらず、生徒も終学活の後すぐ家に帰したので、今学校には教職員しか居ない。外は雨が降っている。梅雨真っ只中だ。頭痛持ちの僕は雨が嫌いだ。気圧が下がると頭が痛くなる。今もほんのり痛い。
僕は考えを
■■■■──隣の学区から越境入学。小学生時代、あまりクラスに馴染めていなかったものの素行に問題は無く、成績はまだ処理していないので何とも言えないけれど中間試験の結果は良好。小学校と彼の母親から報告を受けているけれど、彼は身体は女性でも性自認は男性である。いつからそうなのか、までは説明されていない。だけど、小学校で周りと馴染めていなかったのは、恐らくそこに起因するのだろう。僕の憶測でしかないけれど。
彼の性自認の事は、一応、全教員に知らされている。安住先生の様に身体の性でジェンダーを判断する先生も居なくは無いけれど、概ね全教員が彼の事は男子生徒として扱っている。
僕だって彼を男子生徒だと思って接しているし、それが当然の振る舞いだと思っている。彼を取り巻くA組のクラスメイト達も、彼の事は男子生徒と思って接しているのが見ていて分かる。一年生全体ではどうだろう、彼は人付き合いがほぼ無いみたいなので多分よく分かっていない生徒がほとんどだろう。……安住先生が彼の事を「女子生徒」と言う気持ちも分からなくはない。彼にはその他の男子生徒の様に目立った変声期が訪れることは無い(と思う)ので、声変わりしない彼を
閑話休題、僕が彼を構うようになったのは、
……結局のところ、自分とよく似た顔をした生徒を使って過去の自分を慰めようとしているに過ぎないのだ。職員室に馴染めていない現在の事を鑑みても、とどの詰まり自分と同じ境遇の誰かと時間を共有したかっただけなのだ。
とは言え、彼と〝おはなし〟するようになってから初めて彼の楽しそうな表情を見られたし、実際に「楽しい」と言ってくれていたのを、僕は嬉しく思っている。彼との〝おはなし〟は、僕のエゴから始まった活動だけれど、それを通して彼が成長してくれたならエゴでも始めて良かったと思えるだろう。いつか、クラスに馴染んで僕と〝おはなし〟する時間も無いくらいになってくれたら良いとすら思う。僕に向けてくれた素直な表情や笑顔を、クラスメイトにも向けられたら良いと思うのだ。
考えながら、木工準備室の自分の定位置についていた僕は鞄から痛み止めを出して服用し、コーヒーを淹れる。インスタントコーヒーは僕の舌にあまり合わないので、砂糖は多めに入れるのが常だ。流石に学校にドリップコーヒーの道具は持ち込めない。これ以上私物化──そう言えば彼にも同じ事を言われた──する訳にはいかないし、学校ではそんなにのんびりしていられない。それに、あれは家でリラックスしている時に淹れるから良いのだ。
僕には中学生の頃から患った睡眠障害があり、夜はあまり眠れていないのが常だ。未明に起き出してコーヒーを淹れるのも、単に学校の先生が早起きというだけでなく
「ふふ、そう言えば『少食な割にグルメ』なんて言われたっけ」
僕は彼との会話を思い出し、一人でくつくつと笑った。僕は率直に言って彼の感性が好きだ。「木工室の主」という二つ名を付けられたことも深く印象に残っているし、僕はそれがとても気に入っている。彼には多分、ユーモアのセンスがある。彼がそれを自覚していないだけで。彼は自分の事を会話下手だと思っているだろうけれど、きっとそんな事は無い。慣れていないだけだろう。それは彼自身が「入学してから誰かとこんなに言葉を交わしたのは初めて」と言ったからだ。
(クラスの子と話すことも出来たみたいだし、僕との会話を通して、どんどん会話に慣れていってくれたらいいんだけど。友達も出来るといいなあ)
僕はそう思いながらコーヒーを
そういえば、僕の昔話を聞いてもらった時、彼は僕に対して憐れみを向けてくれたけれど僕はそれを拒絶してしまった。素直に受け取っておけば良かったと反省する。僕の身の上話を知らない彼に憐れまれる筋合いは無いのだけれど、拒絶することは無かったと思う。けれど、僕の
(『訊かれれば何でも話す』って約束、
中学時代の僕自身の話は、僕にとって生徒に話すには決心の要る話題であったので、順を追って話したくて約束を破ってしまった。今はまだその時ではないと思っているのだ。きっと、今話してしまえば彼は僕とどう接したら良いか分からなくなってしまう。──いずれ、時期を見て話すつもりだ。
「さ、仕事しなきゃ」
僕は週末に配布する予定の学年だよりの執筆に取り掛かった。
三、
翌日、木曜日の放課後。
「今朝はすみませんでした。寝坊しちゃって、時間に間に合いませんでした」
段々と夏服姿が
「なかなか来ないから心配したよ。でも事故とか事件じゃなくて安心した」
週明け月曜日、僕は彼から久し振りにテレビを観たこと、タレントは教養が無い方が番組映りが良いのが不思議なこと、歌番組で気に入ったアーティストが見付かったこと、動画サイトを見ようとしたけど見れなかったこと、音楽配信サービスの加入を親にねだったことなどを聞かされた。クラスのみんなには見せない顔を僕に見せていた。そういう話をクラスメイトとすればいいのに、と思うのだけれど彼にはそれがまだ難しいようだ。
僕はそれらの話を聞いて、まずはテレビの感想を訊ねた。彼曰く、テレビはくだらないそうだ。僕もそう思う。利権があるから番組制作をやめることは出来ないのだろうけれど、低俗な番組が増えたと感じる。二十年、三十年昔は高尚な番組を放送していたかと問われれば、それも疑問に感じるけれど。テレビに映るタレントに教養が無いのは多分、番組側のウケ狙いだ。薄ら寒いウケ狙い。人を馬鹿にして
「
と言って、この物語について「恋心が主体になっている物語だったと感じて、あまり面白いと思わなかった」とも述べた。思春期によくある、「甘酸っぱい青春」は彼にとって不要なのだろう。それもまたひとつの選択だと僕は感じる。僕もこの物語は読んだことがあるけれど、僕の心を惹いたのは「人は誰でもみんな死ぬさ。」の一節だった。人は
話は変わり、どんな曲が気に入ったかを訊くと、「抑圧と自由への渇望を歌ったような曲で、程よく考察の余地があり小説を読んだ様な気分になった」と彼は興奮気味に語った。歌手の名前を訊ねると、二十年くらい前にデビューしたシンガーソングライターで、昔聴いた曲はどれも
その翌日の火曜日、彼は嬉しそうに「小説を元に音楽を書くってすごいですね。ぼく、ハマっちゃいました」と報告してくれた。原作小説を調べて買ってもらったそうだ。水曜日に届くと言って、鼻歌でも歌い出しそうな感じだった。「『ユビキリサイクル』の貸出予約をしてるんじゃないの?」と念の為その事を忘れていないか訊ねると
「勿論、それも忘れていませんよ。新しい本を買ってもらうのは小学生以来だから楽しみなんです。ぼくって、別に小学生の頃から太宰を読んでいた訳じゃないですよ。小学生の頃は児童文学を読んでました」
らしかった。彼がこの間、読んだことのある推理小説の作家として挙げたアガサ・クリスティーは児童文学作家じゃないと思うけれど……。それに、太宰を愛読する小学生がいたらお目に掛かってみたいものだ。
ではいつから太宰を読み始めたのかと訊ねてみれば、中学入学と同時期だと彼は言ったので僕は面食らった。中学校に入学したての生徒なんて小学生と大差無いのに、と思ったのだ。何か理由やきっかけはあったのか訊くと、彼の保護者が「児童文学は小学校卒業と同時に卒業」という方針を取っていたらしい。それで一般的な、大人も読む様な文学本にシフトしたそうだけれど、娯楽小説や純文学でなく
「さて。今日は何のおはなしをしようか」
木工準備室で定位置についた僕たちは〝おはなし〟を始める。今日の飲み物は緑茶で、おせんべいを用意してある。
「ぼく、そろそろ『人間失格』が読み終わりそうなんです」彼は感激気味に言う。
「じゃあ、今日は読書会にする? 僕も『変身』の続きを読もうかなあ」
僕が冗談のつもりでそう言うと、
「イジワルな事言わないでください。先生とおはなしする為にぼくはここに来てるんですよ。読書はいつだって出来ます」
真面目なトーンでこう返ってきて、彼はおせんべいを一枚手に取った。
「冗談だよ。キミは真面目だなあ」僕は、ふふ、と笑う。
「先週も言いましたけど、ぼくは別に真面目じゃありませんよ」彼は膨れた。
「買ってもらった本は届いたの」
水曜日に届くと言っていたのを覚えていたので訊ねてみる。彼がおせんべいを口に入れたので「飲み込んでからね」と軽く注意を促す。飲み下すと、言った。
「はい、届きました。『人間失格』を読んで、『ユビキリサイクル』を読んだ後はこれかな、って」
彼が買ってもらった本のタイトルは『タナトスの呼び声』という本だ。僕は読んだことが無いけれど、これを題材に書かれた曲は「自殺」がテーマになっていることくらいは知っている。
……自殺か。勇気が出なくて行動に移したことは一度たりとも無いけれど、死にたいと思っていた時期はある。未来に何も展望が持てず、自分は無力で、無能で、役立たずで、ただ呼吸をして存在することでさえ世間に対して申し訳無い気がしてずっと死にたいと思いながら毎日を過ごしていた時期があるのだ。ふとした瞬間に事故に遭ったりして、いつ死んだって構わないとさえ思って過ごしていた。今も程度が弱まったくらいで生への執着は薄い方だと思っている。
「曲調は明るいけど、物悲しい感じの歌詞で……どんな意味がこもってるんだろう。敢えて考察とかは読まずに、原作小説を読んで思った事を僕の解釈にしたいんです」
彼の
「他人の言葉を借りた解釈をするのは、何となく違う気がするよね」と相槌を打つ。
彼も、そうなんです、と肯定し
「小説は勿論そうなんですけど、多分、音楽にも同じ事が言えるんじゃないかなって思うんです。歌詞だって、
「そうだね。解釈っていうのは人の数だけあっていいものだよね。今は何かにつけて『考察』がネット上に転がっているけど、ああ言うのを読んで『考えた気になる』のだけは良くない事だと思う」
考察記事というのは読んだ人を〝考えた気〟にさせる。僕はどうもあの手の記事が(読みはするけれど)好きになれない。
「先生も考察記事って好きじゃないですか」
「うん、あんまり好きじゃないかな」
彼は
「ひとつの意見としては読むけどね」
すると彼の顔は落胆気味になった。彼は意外ところころ表情が変わる。
「考察記事を読んで『考えた気になる』のは良くないと思うけど、意見として読むくらいだったら自分には無かった視点を知れて面白いでしょ。僕、『考察記事が悪い』とは言ってないよ」
僕が言いたかった事の主軸は〝考えた気になる〟ことが良くない、という点で、考察記事そのものが悪いとは言っていないのだ。彼はハッとした顔になった。
「意見交換……みたいなものですか」
そうだなあ、と僕は考え
「まあ、そんな感じかな。自分はこう思ってこう解釈してるけど、この人は違うんだって事が分かればいいと思う。キミの言葉を借りるなら、『読み手一人ひとりの数だけ解釈があっていい』んだから。そこに優劣は無いよ」
優劣は無い、という点を強調して伝えた。彼は頭が良いから、他の人の解釈に触れた時に自分の解釈の方が優れているなどと誤解されてしまっては困る。
「ともあれ、僕もあの曲は好きだし、今度原作小説の方も買ってみようかな」
あの曲は「自殺」がテーマになっているけれど、僕には良くも悪くも勇気、思い切りというものが無いので悪い刺激には成り得ないだろう、と原作小説の購入を検討してみることにした。
「本当ですか! 先生も読んだら感想聞かせてください。意見交換しましょう」
彼はいつに無く嬉しそうだ。
「うん、約束ね」僕にとっては単なる口約束のつもりだけれど、彼にとっては大事な約束になるのだろうなと思いながら応えた。
その後も彼とは様々な話をして、この日の〝おはなし〟は終わった。
四、
「都築先生、いらっしゃいますか」
授業の合間の休み時間、木工準備室の扉が叩かれる。生徒の声ではない。
誰だろう、と扉を開けて応じると沖永先生が居た。彼女が僕に用があるなんて珍しい。
「沖永先生。どうしたの、珍しいね」
「あの、それが……」
何か急ぎの用だろうか、少し肩で息をしている。目に掛からない程度の長さに切り揃えられた前髪は、汗で若干額に張り付いている。……急いでここへ来たのではなく、体育の授業が終わった後なのかも知れない。一応訊いておこう。
「何か急ぎ?」
彼女はふるふると首を振り、急ぎではないことを示した。後ろに引っ詰めて
「気になった事があって来たんです。あ、汗かいてるのは授業が終わった後、
「ううん、いいよ。……お茶でも飲んでく? 喉渇いたんじゃない?」
僕は形式的にもてなす姿勢を見せる。
「いいんですか! じゃあ、お言葉に甘えて。失礼します」
彼女は人懐こい笑顔になって、素直に準備室の中に入ってきた。
「……職員室よりは涼しくないんですね」彼女は額の汗を手の甲で拭う。
「あ、ごめん」自分は悪くないのに、つい謝ってしまう。「冷房の温度下げようか」
僕は冷房が苦手で、温度設定は二十三度と少し高めにしている。痩せていて代謝も低いから、温度が低いと凍えてしまうのだ。職員室の冷房の温度設定は十八度くらいで、僕には寒すぎる。それに、冷房の風に当たっていると頭痛がしてくる。所謂「冷房病」というやつだ。
「大丈夫です。じっとしてれば涼しくなると思いますし」
沖永先生はそう言うけれど、今日も外は雨が降ってこの湿度だし、じっとしていてもあまり涼しくならないと思った。僕はあまり身体を動かさない教科だけれど、沖永先生は体育の先生だし僕よりも若く代謝も良い筈だ。
「いいよ、下げるよ。体育館、暑かったでしょう。立ち話も何だし適当に掛けて」
僕はエアコンのリモコンに手を掛け、温度を二、三度下げた。短い時間なら僕の体調も大丈夫だろう。
「ありがとうございます。そうなんですよ、体育館って蒸すんですよね。エアコン付けてくれてもいいのに」
椅子に掛けながら沖永先生は言う。ぷくっと頬を膨らました。女性で二十代前半くらいなら、まだ可愛らしい仕草だ。これを言うとセクハラになるので言わないけれど。
「ボールが当たったりしたら壊れちゃうから付けないんじゃないかな。部品とか落ちてきたら危ないからね」僕も自分の椅子に座って、彼女を軽く説得した。
「確かに……」納得したらしい。そんな彼女を横目に僕はお茶を用意して差し出す。
「はい、お茶。紙コップでごめんね」
「あっ。ありがとうございます」
余程喉が渇いていたのか、沖永先生は受け取ったそばから飲み干した。
「それで、どうしたの」
僕は沖永先生に話を促す。
「あ、そうでした。A組に■■くん、居るじゃないですか」
僕は沖永先生から彼の名前が出てくるのを少し意外に思いながら「うん」と話を合わせた。彼が何か問題行動でも起こしたのだろうか。
「その子の事でちょっと相談と言うか……。プール開き、しましたよね」
「ああ、プール開き。そうだね」
確かにもう、水泳の授業が始まっている。薮から棒に何だろう。
「彼、水着が着れないから出席出来ないんですよね。男子用の水着を着てもらう訳にもいかないじゃないですか」
「ああ……言われてみれば」
全くの盲点だった。体育教諭の彼女ならではの視点だと思う。
「だから水泳の授業の分って成績をどうすべきなのか、担任の都築先生に訊こうかなって」
「うーん……そうだなあ」
頼りにしてくれるのは嬉しいけれど、僕は体育教諭ではないので返答に窮した。
「成績の処理の仕方は沖永先生も分かるよね」と念押しをする
「はい。知識・技能と、思考・判断・表現、それから主体的に取り組む態度に良い順にA、B、Cって付けて、それを合わせて五段階評価、ですよね」覚えたての知識を披露してくれる。いや、去年一年間、実践したのでもう覚えたてではないか。
知識・技能は小テストや定期考査などのペーパーテストで測り、思考・判断・表現は定期考査などのテスト以外にも学習への取り組み方やノートの取り方で判断する。主体的に取り組む態度、と言うのは言葉の通り授業態度や提出物の状況で判断する。体育は恐らくそこに、運動の実技技能も加味して成績の処理をするのではないだろうか。
僕は、そうだね、と軽く相槌を打って
「そしたら、水泳の実技技能を測れないって事になるよね。水泳の実技技能が測れなかった、ってことでそこの成績を少し下げたらいいんじゃないかな。事情はどうあれ、下駄を履かせちゃったら公平じゃないし。説明を求められたら『水泳の技能が測れませんでした』でいいんじゃない」
と、自分の考えを述べた。沖永先生は、やっぱり、と何か諦めた様子だ。僕も、そういえば、と疑問に思った事があったので訊ねてみることにした。
「男子の指導をしてるのって沖永先生じゃなくて、
松田先生も沖永先生と同じく体育教諭で、主に男子の指導・監督をしている。僕と同期の男性の先生だ。大柄で
「そうです、松田先生です。実は松田先生に■■くんの成績について訊いてみたら、やっぱり都築先生と同じ事を
沖永先生は椅子から立ち上がると、軽くストレッチする様な動きをした。じっとしているのは
「そうだったんだ。じゃあ……僕や松田先生の言ってる事は参考程度にしてさ、沖永先生自身が考えた事を言ってみてもいいんじゃない?」
「私が考えた事?」
沖永先生は首を傾げる。僕はそれを
「うん、そう。沖永先生だってもう
「そうですかねぇ……」
彼女は懐疑的な表情を浮かべた。多分、この間の職員会議の時に自分の提案が
「何も思い付かなければ、僕や松田先生の言う通りにしちゃえばいいんだからさ。自由に考えてごらんよ。松田先生と一緒に考えてみてもいいんじゃない。沖永先生だってこの学校を担ってるんだし、悪くないと思うけどな。それに、」
「それに?」沖永先生がきょとんとした顔で僕を見る。
「頼られて悪い気のする人って、あんまり居ないよ」
僕は笑ってみせて、小さくサムズアップした。「頑張って」という意味合いを込める時、僕はこうする。
「分かりました。私、もう少し頑張ってみます」彼女は決意を新たにすると、空になった紙コップを僕に手渡し「相談に乗ってもらってありがとうございました! お茶、ごちそうさまでした」と言い残して木工準備室から駆け出して行った。
「頑張ってね。……行っちゃった」
嵐の様な子だ。
再び静寂を取り戻した木工準備室で僕は一人思う。新一年生を迎え入れる前、今年はどんなモンスター(保護者もだし、問題生徒という意味でもだ)を抱え込むことになるかと思ったら違うベクトルの問題を抱えた子が現れてしまったな、と。「問題」と言っては良くないか。彼が彼らしく生きているだけなのだから。
難しい時代になったな、本当に。
五、
また別の日。授業の無い、空き時間。
「あ、いたいた。松田先生、ちょっといいですか」
僕は
「都築先生じゃないですか、どうしたんです」珍しいものを見る目で彼は僕を見た。実際、珍しいのだけれど。
「一年A組の、」と僕が言えば松田先生は「ああ」と声を上げ
「あの彼の成績の事ですよね」と言った。
「えっ、なんで分かったんですか」
「沖永先生から『■■くんも他の生徒と同じ様に成績をつけてあげたいんです、一緒に考えましょう』って言われましたもんで。自分の受け持つ生徒でもないのに……と思ったけど、都築先生の差し金でしたか」
彼女はあの後、早速行動に起こしていたらしい。
「差し金だなんて人聞きの悪い。若い子に頼られて無下に出来るほど、僕も人間終わってないですから」
僕が言えば松田先生は、はは、と笑って
「失礼、失礼。それにしても彼女、都築先生に懐いてますよね」と、見当外れな事を言いだす。
「そうですか? 人懐こい子だから、誰にでもああだと思いますけど」
僕はやんわり否定した。松田先生は僕の顔をじっと見ている。人の目を見て話すのが習慣になっている人なのだろうけれど、実は僕は彼のその癖が少し苦手だ。人と視線を合わせるのが怖い僕は、
「まあ、人懐こい子なのは否定しないですけど」と彼は一応は納得してくれて続ける。「都築先生は普段職員室に居ないから知らないと思いますけど、安住先生の事なんかは露骨に避けてますよ」
僕は、だろうな、と思って失笑してしまう。
「そりゃあ、あんなヒスババ……じゃなくて、
僕がそう言って声を殺して笑う。口を滑らした気がする。すると松田先生まで
「『ヒスババア』は言い過ぎですよ、都築先生」とげらげら笑った。
「言ってないでしょ!」
「ほぼ言ったようなものでしょう」
僕達は
「ああ、おかしかった。違うんです、僕はこんな話をしに来たんじゃなくて」自分の目元の涙を拭った。
「分かってます、分かってます。成績処理の話ですよね」松田先生も咳払いをひとつして居住まいを正した。
「沖永先生の言う事ももっともだったので、付き合いましたよ。主に水泳の実技技能を測れないのが論点だったので、代替案を一緒に考えました」
この通り、松田先生は気の良い人だ。目を合わせる癖さえ無ければ。
「へえ、代替案。どんなのですか」興味があって訊ねた。
「実技をさせる代わりに、水泳競技のルールや泳法、気を付けるべき点などをペーパーで学ばせて、レポート作成させるのがひとつ、次に救命活動の授業には着衣のままでも参加出来ると思うのでそれには参加してもらう、最後にこれも救急法のひとつなんですけど、着衣水泳だったら参加出来る筈なのでこれにも参加してもらう。……これが精一杯だろう、という結論に至りました」
僕は、なるほどな、と思った。
「上手いこと考えましたね」
「ほとんど沖永先生が考えたんですよ。自分はその手伝い」松田先生はにっかり笑う。
「本当に。なんだ、沖永先生もやれば出来るじゃない」僕は感心してしまった。
「逆に、今までこういった事例は無かったので自分はあまり役に立てなかったかも知れません。地蔵です、地蔵」
松田先生は困った様に笑ったけれど、僕にだって初めての事態だ。
「僕だって彼みたいな生徒は教師人生の中で初めて抱えましたから、日々考えさせられる事ばっかりですよ」
「例えば?」松田先生が僕に訊ねる。
僕は、そうだなあ、と少し
「彼を『女の子だ』と捉える先生も居なくは無いじゃないですか」
数日前、安住先生に言われた事を思い出す。
「あー……まあ、そうですね」
「僕達みたいな男性教諭は彼とどのくらいの距離感で居たらいいのか、とかですかね」
松田先生は、確かにね、と僕に同調しつつも
「男子生徒として接していいんじゃないですかね」と言う。
「やっぱり松田先生もそう思います?」
「それが
今流の礼儀、か。僕もそれが礼儀だと思っているけれど、それにしても的を射た表現だなと思う。
「僕達みたいなオジサンには難しい時代ですよ」僕は溜息をついた。すると
「都築先生、『達』は余計です。『達』は」と飛んできた。
「松田先生は僕と同期でしょう。じゃあオジサンですよ」
松田先生は、違う違う、と言って
「自分はオジサンだけど、都築先生はまだでしょう。よっ、伊達男」
なんて
「自分だけ老け込もうとして」僕はむっとしてしまう。
「そんな顔しないでくださいよ」対照的に、松田先生はからからと笑う。
「都築先生、変わりましたよね」
松田先生がやにわにそんな事を言うものだから、僕は驚いた。
「そうですか?」
目を
「うん、変わった。明るくて表情豊かになりましたよね」
僕が、そうかなあ、と言っていると
「前はもっとこう……取っ付きづらいと言うか、目が怖かったです」
「目?」
視線の事だろうか。
「そう、目。見られると背筋が凍りそうになる感じの、怖い目」
そうだっけ。こういうのは自覚が無いものだ。
「僕、そんな目してたんですか」
そう問うと、
「してましたよ。……ひょっとして、無自覚?」
と松田先生が。
「いやだって、しようと思ってするものでもないでしょ」
心からそう思うので、それを伝える。
「てっきり厳しい先生を演ろうとしてたのかと」
僕は、ううん、と首を振る。
「そうじゃないんですね。『前は』目力の強い人だな、って思ってましたよ」
前は?
「じゃあ今は?」
「別の意味で目力の強い人」
僕は彼の言に、ぷっ、と笑って
「何それ」とひとこと。
松田先生は恥ずかしげも無く
「いや、女性の先生が噂してたの聞いちゃったんですよ。『都築先生くらい目が大きくて
と僕に向かって言う。
「ああ、そういう事」
確かに僕は二重
「僕がアイメイクなんてした日には、シャドウやライン以前にクマ隠しの方が大変でしょうけどね」
僕がおどけると松田先生もそれに同調して無遠慮に
「疲れた顔してますもんねぇ。ちゃんと休めてます?」と言う。
「休めてたらこんな顔してないですよ……」
僕は大きく溜息をついた。
「学年主任って忙しいですからね。休む時間も無いか」
こう言う松田先生はまだ学年主任になったことが無い。
「実際にやってみてから言ってくださいよ、本当に忙しいんですからね」
僕がぼやくと松田先生は、それもそうだ、と
「都築先生、学年主任は初めてでしたよね。いろはとかは誰に教わってるんです」
と訊ねてくるので
「安住先生ですよ。去年、学年主任だったでしょう」と答え「まさか、僕にお鉢が回ってくるとは思いもしませんでしたよ。ああいうのは『前年通りに』安住先生辺りが引き受けるとばっかり」と愚痴った。
「まあまあ、都築先生。これで都築先生も教師として一皮剥けますよ」
松田先生が無責任にもそう言うので僕は
「言ってくれるじゃないの」と彼を軽く
「おお、怖い。自分が学年主任を任された時は都築先生に教わろうと思ってたのに」
松田先生が適当をぬかしたので
「生徒指導の先生は学年主任やらないでしょ!」
と一喝してやった。
僕は、はたと気付く。
「そういえば、彼がレポート書いたりするのって、流石にプールじゃやらないですよね。その間の監督って誰がするんですか」
プールでは水気で紙がふやけてしまうし、など説明すると
「ああ、それはね。体育の授業時間はプールに居てもらって、宿題として出すことにしました。自分と沖永先生と
それを聞いて僕は「沖永先生はいい先生になるだろうな」と思ったけれど、ちょっと疑問に思った事があった。
「それ、もしかして印刷物作成も沖永先生がやるんですか? 時間外労働、増えません?」
先日、時間外労働が増えることに苦言を呈した彼女がなぜわざわざそんな事をするのだろうか。松田先生もあっと気付いた顔になり、
「……そこまで考えてなかったんじゃないですか」と苦笑した。
僕は、それは松田先生もでしょ、という言葉を飲み込んで溜息交じりに笑った。
六、
自分の授業で。
今は木工を教えている。中学生でも出来る簡単な設計図の書き方を教え、その設計図の通りに思い思いの木工作品を作ってもらう。
生徒同士で班を作って、楽しそうにわいわいと試行錯誤しながら
ふと、一番目に付く席の男子生徒の一群に目が行く。互いに教え合いながら作業をしている。その一群の中にはクラスのひょうきん者にして人気者、
そういえば、彼は千葉くんと仲良くなりたいと言っていたっけ。木工室では出席番号順に席に着いてもらっているので、あの彼も一緒だ。僕はそのまま千葉くんの様子を窺う。
千葉くんは僕の視線に気付くと、
「都築先生、何ですか」笑顔で僕の名を呼んだ。
「ううん、たまたま見てただけ」
彼が千葉くんと「仲良くなりたい」ことは彼自身の口で言うべき事なので、僕からは静観を
「あ、じゃあ先生。ノコギリのお手本見せてください」僕に
「うん、いいけど。何が上手くいかない?」
僕は教卓から離れ、千葉くん達の班へ向かった。
「真っ直ぐ切れないんです。どうやったらつっかえないで真っ直ぐ切れますか」
この班で中心になっているのもやはり千葉くんなので、彼から質問される。あの彼は隅の方で一心不乱に鋸引きをしていた。ちらとその様子を見てみると……上手い。
「彼をよく見て」千葉くんに言う。
「え?」千葉くんは小首を傾げながらも僕の視線を追って見る。
「えっ、ぼく?」彼も鋸引きの手を止めて僕の方を見た。
「キミはそのまま続けて」手が止まったのでそのまま続けるよう促す。
「は、はい……」不可解そうな顔をして鋸引きを再開する彼。
……やはり上手い。教えた通り身体の芯が鋸と全くずれていなく、引く様に切っているので
しばらく彼の鋸引きを観察し、
「分かった?」千葉くんへ訊ねる。
「確かに上手いけど……」千葉くんは言葉に詰まりつつも「アイツみたいにコツが分からないんです」と正直に述べる。
「あはは、『見て覚えろ』はちょっと難しかったかな」
僕は千葉くんから鋸を受け取る。実演だ。
「さっき彼がそうだったように」僕は鋸を構え、木材の方を向く。「こうやって、鋸を持った身体と木材は垂直になるように木材に当てて、」そのまま少し鋸引きをしてみせる。「引く時に切る。鋸には刃が付いてるから余計な力は込めずにね」
「すげー、俺と違って軽々切れてる」
僕は大工仕事が専門なのに、千葉くんに感心されてしまった。
「まあね、これが専門だから。キミも実演ありがとう、技術の先生になれるかもよ」
僕がそう言うと彼は、はにかみながら
「
甘ったるい声から察するに多分、本当は手伝ってほしいのではなく僕と話す口実が欲しいだけだろう。彼女らが僕に恋心を向けていることに気付けないほど、僕は鈍感ではない。それでも、呼ばれたからには行かねばなるまい。
「じゃ、僕は行くから彼に教わりながらやってごらんよ」
僕は千葉くんに鋸を返して、山本さん達の班へ向かった。千葉くんと彼の関係については静観を極め込むつもりだったけれど、ちょっとだけ「話題作り」という世話を焼いてしまったな。良い方に向かってくれることを願う。
七、
その日の放課後。木工準備室、定位置で。
「先生! 今日、先生のお陰で千葉と話せました」
興奮を隠しきれていない様子で彼は言う。
「僕のお陰、なんて買い被りすぎだよ」僕は彼を落ち着けるつもりで言った。
「でも、千葉と話せるようにしてくれたのは先生で……」
「別に? それで、千葉くんとはどんな話をしたの」
あまり人から持ち上げられるのも僕にとって据わりが悪いので、話を変えた。
「あ、はい。『ノコギリ上手いよな』って言うから『そうかな』って返事して……」
そんなに会話が盛り上がる返しではないな、と思いつつも、彼は会話に慣れていないのでその点には目を
「『教えてほしい』なんて言われちゃったから、千葉の分もちょっとだけ手伝いました。『上手い』って言われて、悪い気はしませんでした」
「そりゃあ、褒められたら嬉しいのは誰だってそうだよ。僕だってそう。それで?」僕は話を促す。
「『本の虫かと思ってたけど、意外な特技だな』なんて言ってくれて。ぼくは……『ありがとう』くらいしか返せなかったですけど……」と照れくさそうに言ってから「ぼくってやっぱり、本の虫なのかな」彼が落ち込んだ様な表情で言うので、
「『本の虫』って『無類の本好き』って意味だから、褒め言葉の部類だと思うけどな。知ってた? 英語でも本好きの人を日本語と同じ様に『ブックワーム』って言うんだよ」と言って励ました。
「へえ、知らなかったです」彼は手を叩く。
「ごめん、話が逸れたね。続きどうぞ」
いけない、話が逸れてしまうところだった。
「千葉がクラス中に聞こえる声で『コイツ、ノコギリ上手いぞ! みんな教えてもらえよ』なんて言い出した時、ぼく、肝が潰れるかと思いました」彼は溜息をついた。
僕は
「そうだね、見てたよ。キミ、ちゃんと教えられてたじゃない」
千葉くんが彼を指して「みんな、教えてもらえよ」と言った場面は僕も見ていた。千葉くんの一声で、鋸引きが上手くいかない生徒達(そもそも授業を受ける気がない生徒や僕に
「あんな一気に注目されるなんて思わなかった……千葉の影響力を舐めてました」疲れた声で彼が言う。
「よく頑張ったね」僕は彼を労いながらも「でも、千葉くんと話すきっかけがあって良かったね。仲良くなれそう?」と訊ねる。
彼の顔はぱっと明るい顔になって
「千葉ってやっぱり面白いヤツですね」と言う。
「仲良く……なれたら、いいな。今度また、声……掛けられたら、いいな」
そう
「千葉って本、読むのかな。先生、見たことありますか」
僕は、どうだっけな、と考えを廻らせ
「うーん、そんなに読んでる印象は無いけど」と答える。
「そうですか……」彼は肩を落とした。
本しか話題がないのも考えものだ、と僕は思った。それに、僕は学活や授業で見ている以外に千葉くんの事を知らない。
「キミ、最近はテレビも観てるし音楽配信サービスにも加入したんだから、もう本以外にも話題あるでしょ」僕はそう言って
彼は、はっと気が付いた顔になって
「そっか。別にもう本が話のきっかけじゃなくていいんだ」と安堵する。
「千葉も
NUBATAMAは僕が彼に教えた、小説を元に音楽を作っているアーティストだ。確か、「夜」の
「そればっかりは千葉くんに訊いてみないとね」僕も知らないのでこう言うしかなかった。
「ですよね。うん、ぼく、今度訊いてみます」
彼は今日の事で少し勇気付けられたのか、両の拳をぐっと胸の前で握った。
「ところで、」彼が言う。
僕が視線で応えると
「先生ってNUBATAMA以外に好きな歌手って居るんですか」と来た。
「うん、居るよ。『ゆカり』って言って『カ』だけ片仮名で後は平仮名なんだけど、」僕が答えると、彼は鞄からスマートフォンを取り出し
「ゆ、カ……り」と入力を始めた。
学校では携帯電話の持ち込みは禁止されているけれど、今は僕の監視下だし、まあいいかと思って特に止めなかった。
「人が話してる途中でスマホをいじるのはマナー違反だから、余所でやらないでね」とだけ忠告する。彼も「うん」と頷いた。聞いているのだろうか。
「……これだけしか曲出てないんですね。アルバムがひとつと、後はシングルばっかり。デビューしたばっかりとか?」
彼は無邪気に言う。僕は、いいや、と首を振る。
「亡くなったんだ。ついこの間」僕は淡々と伝える。
「えっ……」彼は驚きを隠せていなかった。人の死に触れたことが無い感じの、純粋な驚きだ。
僕も彼女の
「幾つ、だったんですか」彼は少しばつの悪そうな顔で僕に訊ねる。
「二十五歳だったかな。まだこれからだったのにね」残念に思いながら答えた。
「初めてのアルバムが最後のアルバムになっちゃったんだ」
そう言って、僕は思わず目頭が熱くなる。
「そうなんだ……。なんだか、残念ですね」でも、と彼は続ける。「その人は亡くなっちゃってもう居ないけど、作品はこうして遺るんだって思うとその人の生きた証、って感じがしますよね。何も遺せずに亡くならなかった」
ぼくの読んでいる本の作者は亡くなった人ばかりだし、と彼は言う。彼なりに僕を励ましているつもりなのだろう。その
「うん、そうだね。……僕達は、何が遺せるだろう」憂鬱な声色になってしまったように思う。
僕の
「ぼくは、この〝おはなし〟だと思います。これがぼくと、都築先生が確かに居た証です」と応えてくれた。
「多分、ぼくと先生のどっちかが先に死ぬんだと思います。それでも、遺された方はきっと、今のこの〝おはなし〟の事は覚えてると思うんです。別に何か大きな事はしなくていい、小さな思い出の積み重ねだと思います。……答えになってますか」
歳頃に似合わない、大人びた答えが返ってきて僕は吃驚してしまった。「何か大きな事はしなくていい」というひとことが僕の感情を揺さぶる。それは、「何か大きな事を
目元を拭う。
「……十分だよ。いい答えだね」
僕は彼の頭を撫でたい衝動に駆られて、彼の頭を撫でていた。
「くすぐったいですよ」彼はそう言うけれど、僕は構わず続けた。
「撫でたい気分なの。撫でさせて」
僕はこの
たっぷりと撫でた後は、指を使って丁寧に髪型を整えてやる。
「満足しましたか」彼は僕を慈しむ様に言った。
「うん、満足。ありがとう」僕は前とは違ってそれを受け容れ、微笑んだ。
「撫でたくなったら、いつでも撫でてください」
彼なりの激励なのだろう。それがなんだかおかしくて、ふふ、と笑ってしまう。
「撫でたくなったらね」
所構わず撫でる訳にはいかないので、そう言っていなした。
「ぼく、人が死ぬのって年齢の高い人からだとずっと思ってました。若くても死んじゃうことってあるんですね。運? みたいなものなのかな」
彼くらいの年齢ではそう思っていても無理は無いな、と思う。
「そうだね、運なのかも知れない。僕が今生きてるのもきっと、運が良いだけなんだと思う」
僕が三十七という歳まで生きてこられたのは、
「もともと人間の運、不運などというものは空行く雲と同じで、結局は風次第のものにすぎない」
きょとん、とした顔で彼が僕を見る。
「チャップリンの言葉。本質的に人間の運は空を漂う雲の様に、風の流れが変わってしまえば簡単に変わってしまう……って僕は解釈してる。もし明日僕が死んだとしても、それは単に風向きが変わってしまっただけなんだと思う」
僕は溜息交じりに言ってみせた。
「もし明日死んだら、なんて淋しい事言わないでください」彼は目を三角にした。
「ごめん、ごめん。好きなアーティストの訃報を受けて、少しナーバスになっちゃってるのかも知れない」
彼からしてみれば「もし僕が明日死んだら」なんて話は衝撃的だっただろうから、僕はそれを詫びる。
「でも、先生にとって、それくらいショックだったんですね。そのアーティストが亡くなったこと」
「デビューした時から知ってたからね」
「子供みたいなものですか」
僕は、ふっ、と軽く噴き出してしまった。
「それはちょっと違うかな。仮に僕に子供がいたとして、いつの子供なのさ」
「えっと、三十七引く二十五で……あっ」
彼と同じ年齢──十二歳だと気付いたらしい。
「ね、有り得ないでしょ」と僕が笑い掛ければ
「すみませんでした……」と彼は顔を赤らめた。
「そうだ」 僕は湿っぽくなってしまった空気を変える様に話を一変させる。「キミ、『ユビキリサイクル』の貸出の順番は回ってきたの」
彼も、そういえば、という顔になる。
「はい、やっと回ってきて今読んでます」
「どう、読んでみて」感想を訊ねてみる。
「まだ四分の一? くらいしか読んでないですけど、裏表紙のあらすじを読むに推理小説だったんですね。今は大体、主人公と五人の秀才が
そりゃあ普段太宰を読んでいるキミからしたらかなり読みやすいでしょう、と僕は閉口してしまった。
「キミ、読むスピード速いんだね。僕、結局三日間じゃ読破出来なかったよ」
僕もこの間、同じ本を(司書の先生に無理を言って)貸してもらっていた。推理小説の入口として読みやすい本で、久し振りに推理小説を読んだ僕も頁を捲る手が止まらないとは思ったけれど、日々の仕事に忙殺されて読了は出来なかった。クライマックスを目前にして返却する羽目になった。
彼は、あはは、と少し笑って
「僕もこの量を三日間で読め、って言われたら無理ですよ。宿題とか、他にもやる事ありますし。三日間、一日中の時間を読書に
「そんな事言ったら僕だってそうだよ」ふう、と溜息が出てしまった。
「先生も一日中読書出来る時間があったらいいと思いますか」彼が期待してこちらを見る。
「そうだなあ。仕事とか食事も睡眠もしなくていいとして?」
彼はこくこくと頷く。好きな物事を前にすると寝食を忘れてしまうのは、ありがちな話だ。
「どうだろう。僕、読書以外にもやりたい事はあるから。ギターの練習もしたいし、ゲームもしたいし……まず、一日も自由時間が与えられたら、やりたい事選びから始まっちゃうかな」
「先生ってやっぱり多趣味」彼は膨れっ面になった。
自分でも、これは多趣味の部類かも知れない、と言っていて思う。
「ぼくだったら、本に埋もれた生活って憧れますけどね」
彼が息を弾ませてそう言うので、僕は
「もしさ、キミと僕がルームシェアなんかしたら、小説本とパソコンとゲーム機とゲームソフトと音楽本で
と、仮の話をしてみた。
「ほとんど先生の物じゃないですか」彼は苦笑する。
「バレちゃった?」僕はちろりと舌を出した。
「バレバレですよ」そのまま、ふふふ、と笑いだした。「うふふ、先生って、ちゃっかりしてる、とか……ふふ、言われません?」
「ええ? どうかなあ、言われた覚えは無いよ」身に覚えが無い。
「絶対、っふふ、ちゃっかり者……ですって、ふふふ」
「そんなこと無いと思うけど……」僕はなんだか釈然としなかった。
「ああ、面白かった」彼は呼吸を整えて言う。「ところで、なんでこれって『
「キミ、ネタバレは気にする方?」念の為に訊ねておく。このシリーズには印象的なフレーズがあるのだ。
「うーん、これは推理小説だから……物語背景やトリック、後はオチさえバラされなければ大丈夫、かなあ。何か理由があるんですか」
それなら、と僕は説明することにした。
「主人公、居るでしょ」
「はい、居ますね」不思議そうな顔でこちらを見ている。
「彼を引き立たせる彼自身の台詞が『世迷言だけどね』だからだよ」
僕が言うと、彼はぴんと背筋を伸ばして
「え、ぼくも早くその場面読みたいです」とそわそわしだした。
「じゃあ、今日はもうお開きにする?」僕は気を回して言う。
「えっと、うーんと、ええ……」
彼は言葉に閊える。そんな彼に
「貸出期間内に読み切らないとでしょ。僕なら全然待てるから」と言った。
僕が説得すると、彼はどこか悔しそうな感じで
「うう、先生がそこまで言うなら……少しの間、読書に充てさせてください」
と、ようやく言った。
「うん、よく言えました。正直でいられる内は正直でいていいんだよ」
大人になれば、嫌でも嘘をつくことになるから。
「なんか、ぼく、気を遣われてませんか」と彼が言うので
「そんな事無いよ」と元気付ける。
カーテンが開けられた窓の向こうには梅雨空が広がり、雨がしとしとと降っている。外に出ればペトリコールを感じるだろう。
「雨、止みませんね」
これが「まだ帰りたくない」という意味を持つことを知ってか知らずか、彼は窓の外を見て
「もう、どっちなのさ」僕は問いただす。
「え、どういう意味ですか」ぽかんと彼は訊き返す。
僕は、ふっ、と笑い
「なんでもないよ」と誤魔化した。
「じゃあ、今日はこれでお開きね。傘は持ってきてる?」
「はい。朝からこの雨だったので、持ってきてます」
彼は通学鞄を持って椅子から立ち上がる。
「日が長くなってきたとは言え、
僕も椅子から立ち上がり、彼を見送る姿勢になる。
「ぼく、そんなにうっかり者じゃないですよ。でも、ありがとうございます」
彼は薄笑いでそう言った。
「それじゃあ、また明日ね」
「はい、また明日。さようなら」
互いに手を振って別れた。
彼が千葉くんと仲良くなるきっかけを持てたのなら、それは喜ばしい事だと思う。その反面、「自分と瓜二つの生徒を使った
「……そんなんじゃない。しっかりしなくちゃ」
僕は誰もいない木工準備室で独りごちた。
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