第三章 動乱の予兆

第19話「竜と人の賭け」


『また来たのか、〈悲劇の子〉』

『はじめて自分の足で来たんだ。前回は来させられた、だったからな』

『相変わらず皮肉の多い小僧だ』


 ミアハは再び西の森に来ていた。


『しかしよく一人でここまで来れたな』

『前回お前がおれを雑に扱ったおかげで、通った道上にある木の枝が折れてたり、草木が倒れてたり、よく観察すればわかるようになっていたから』

『ふん、人間にしてはよく見ている』


 白い竜――ゼスティリアは大きく鼻で息を吐く。

 だが、正確にはミアハがここまで来れたのは折れた枝や草木のみが頼りだったわけではない。

 ミアハは森の中を流れる風を見ていた。

 風は自分たちのいつもの通り道に少しでも異変があれば、その部分を如実に知らせてくれる。

 前回ミアハが通った道が、森の風の新たな通り道になって輝いていた。


『まあ、わたしが言うのは道を覚えていたか否か、だけのことではない。よくその足でここまで来れたな、という意味も含んでいる』


 苔に覆われた白竜――ゼスティリアはミアハの足を見て言った。


『気をつければ来れないことはない。何年この体で過ごしていると思ってるんだ』

『ハ、まあ、そうだな』


 あの日、はじめてこの白竜と出会った日、ミアハは自分の生い立ちをゼスティリアに話した。

 人間ではないからこそそこまで話せたのだろうと思う。

 人間であれば憐れまれ、同情され、形式ばかりの苦笑を浮かべて話を聞いたものを逆に慰めねばならない。

 同情してもらえることはありがたいが、何度も繰り返すとさすがに面倒になってくる。

 その点相手が野生の竜であると変な気を遣わなくて済んだ。

 野生の竜にとって人間の悲劇など些末なもので、特にゼスティリアは物事に達観している節もあったので、よけいな気を使ってきたりはしなかった。


『とはいえ、さすがに疲れたよ。片足で森を歩くのはひどく体力を使う』

『当然だ。竜が狭い渓谷を破れた翼で飛ぶようなものだからな』


 竜はそういうたとえを使うのか、とミアハは感嘆したように息を吐く。


『いまさらこんなことで驚くな。先日話してわかった。お前は竜より竜にくわしい』


 初めての邂逅のとき。

 ミアハは今まで自分が積んできた竜に関する知識が正しいかどうかゼスティリアを使って確かめた。

 おおむね正しい。

 一部細かな齟齬はあったが、自分の積んできた知識は間違っていなかった。


『……』


 ミアハはそのことに安堵しつつ、だからこそもう一つ――自分には叶えることができないものに焦がれる。


 ――あとは、体験だけなんだ。


 知識として頭に集積されたもの。

 理論としては正しいと証明された。

 しかし、ミアハはそれを現象として実感することができない。

 特に、竜に乗るとどういうふうになるのか、それを知ることができない。


「……くそ」


 ミアハは人語でぼそりとつぶやいて、唇を噛んだ。


『……まあ、私に片翼が残っていれば、お前を乗せてやらんでもなかったな』


 ゼスティリアはわざとらしくそう言って、にやりと笑った。


『皮肉屋なのはおれだけじゃないみたいだな』


 ゼスティリアはミアハの体の状態をわかってそんなことを言ったのだろう。

 少なくともミアハにはゼスティリアが人を背に乗ることを許すような竜には見えなかった。


『そう言うな。老い先短い竜の楽しみみたいなものよ』


 よく言えば気高い。

 悪く言えば傲慢。

 口では人と共棲する竜を『それもあり』と言いつつ、自分はそうはなるまいと思っている。


 ――だからこそ、ちょうどいい。


 ふと、ミアハは悔しげな表情を消し去って今度は悪戯気な笑みを浮かべた。


『ゼスティリア、話がある』

『ほう。お前の転落劇以上におもしろい話があるのならぜひ聞きたいところだ』


 ミアハは先日ラディカから受け取った魔導書を腰のブックホルダーから取り出して開いた。


『……魔導書か』

『竜とはもっとも遠い場所にある人間の英知の結晶だ』


 魔導書に乗るような繊細かつ複雑な魔術を、竜は扱うことができない。

 人間にとっては『机上の禁術』と呼ばれるような魔術を発動させる魔力を持ち合わせていても、その式を編みきる技術が竜にはないからだ。


『賭けをしないか』

『賭けだと?』

『負けた方が勝者の願いを一つ訊く』

『……ふむ』


 ゼスティリアの目にほんの少し好奇の色が乗る。

 ミアハは自分の見立てに違いはなかったと内心でほくそ笑んだ。


『おれが、もう一度お前に空を見せてやろう』


 ミアハは言った。


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