第9話「風読みの魔眼」

『そうはまいりません。あなた様はわたしの主人の弟君であらせられます。であれば、敬称をつけるのは当然のこと』

『君も頑固だね、アルマージ』


 アルマージと呼ばれるその竜は雌の竜だった。

 竜でありながら独特の気品を持つのが特徴で、竜語で話す内容も妙に大人びている。


『兄さんが心配していたよ。君が機嫌を損ねているんじゃないかって』

『フフ、不要な心配ですね』


 アルマージが笑う。

 大きな目が数度瞬きをした。


『兄さんは竜の声が聞こえないからね』

『竜語は喋れるのに、不思議なものですね』

『まったくだ』


 〈竜の喉〉と呼ばれるものがある。

 生まれつき竜語を発することに適した声帯のことだ。

 これがないと、竜語はまず発声ができない。

 長兄フレデリクはその喉を持って生まれた。


『〈竜の耳〉を持っているのはミアハ様とルナフレア様だけでしたね』


 しかし、フレデリクには竜語を聞くための耳――通称〈竜の耳〉がなかった。

 ゆえに、竜語で一方的に竜に命令を下すことはできても、その返事を言葉として聞くことはできない。


『でもルナフレアは〈竜の喉〉を持って生まれなかった。だからかえって君たちを遠ざけるのだろう。一方的に声が聞こえるだけというのは、寂しいものだからね』

『ミアハ様はお優しいのですね』

『どういう意味?』

『いいえ、なんとなく、そう思っただけです』


 次兄のラディカはそのどちらも生まれ持たなかった。

 ラディカは竜乗りに関する才能がない。

 その代わり、地上での武芸一般に特に秀でた能力を持っていた。


『あなたほど竜に近しい人間はそうそうこの世にいないでしょう』

『どうかな。世界は広い』


 ミアハは〈竜の喉〉、〈竜の耳〉、そのどちらをも生まれ持つ。

 そしてさらに――


『あなた様は竜以上に優れた〈風読みの眼〉を持っていらっしゃいます』


 ミアハは風を見る眼を持っていた。

 一説には魔眼に分類される特殊な眼だ。

 大気の流れを光として見、次に風たちがどううねるのかが感覚的にわかる。

 竜のほかにも、空を飛ぶ生物が生来生まれ持つものだが、ミアハにはそれが宿った。

 先代当主はそれを『ドラグーンの申し子』としての力としてたいそう喜んだ。


『もう使うことはないよ。風が見えてもおれは竜に乗れない』


 竜に乗るためには五体が満足であることが否応なく求められる。

 そのうえで激しい鍛練を積み、空を高速で飛翔する竜の背でもバランスを取れる強靭な肉体を手に入れねばならない。


『なぜ人が竜に乗るのか、わたしはたまに考えることがあります』


 アルマージがふとガラス張りの天井を眺めて言った。

 天井の向こう側には青い空が広がっている。


『ただ飛ぶだけなら、竜は人を乗せる必要がありません。そして同時に、ただ戦うためなら人は必ずしも竜に乗る必要はない』


 そのとおりだ、と思いながらミアハはアルマージの次の言葉に耳を傾けた。


『要は生き残るためのなのだと、最近は思うようになりました』

『そうかもしれないね』

『わたしたちはただ空を飛んでいるだけでは生き残れなくなってしまった。食料はなく、またわたしたちを狩ろうとする者たちに対抗することも敵わず』


 竜の体は武器や防具の素材として重宝される。

 生態系の頂点に位置するというのも伊達ではない。

 骨は金属より堅く、皮はどんな冷気、熱気をも遮断する。

 心臓にほど近い位置にある魔力器官には莫大な魔力が宿り、ときに術機の素材にもされた。


『竜は人を背に乗せ、知恵を授かる。あるいはその繊細な魔術の御業でもって、援護を受ける』

『竜は細かい挙動の魔術が苦手だからね』

『困ったものですけれど』


 竜は魔術を使えるが、人間ほど精緻ではない。

 最大限にチューンされた術機砲の一撃を受ければ、彼らの魔術障壁ではそれを防げない。


『そして人もまた自分たちを侵略する者に対抗するため、空を駆ける手段を求めた』


 だから竜に乗る。

 ドラセリアはそうして国を守ってきた。


『ドラセリアは竜に優しい国です。わたしはこの国にいられることを嬉しく思います』

『野生でいるよりも?』

『ええ、野生でいるよりも、ずっと』


 野生の竜はひとところに留まらない。

 世界中を飛ぶ。

 稀に世界を飛ぶことに飽きた長寿竜が気に入った山脈などに居所を構えることがあるが、たいていは人の踏み入れないような険しい場所だ。


『わたしはまだ三十年も生きておりません。ほかの先達たちと比べたら幼子同然。それでもこうしてここにいられることが幸せだと思えるくらいには、竜の世界も厳しいのだと知っております』


 竜の世界もまた戦いが多いと聞く。

 弱肉強食なのはどの生物の世界でも同じだ。


『ところでミアハ様、今日はドラゴン・レースのことでお越しになったのですよね?』

『ああ、うん。フレデリク兄さんを頼むよ』

『無論です』


 アルマージがゆっくりとうなずく。


『わたしはレイデュラント家当主の竜として、必ずやあの方を優勝に導きましょう』

『うん。あんまり心配はしてないんだけどね』


 アルマージは竜の中でも特に飛翔速度に優れている。

 そしてそんなアルマージの乗るフレデリクもまた、竜乗りとしての資質に優れている。

 鍛え抜かれた肉体は竜の飛翔にも振り落されることなく、飛翔先の障害を退ける魔術にも秀で、そのときどきの判断にも狂いはない。


『フレデリク様以上の竜乗りが現れないかぎりは、負けません』

『――うん』


 このときのアルマージの言葉には、いくつかの意味が込められていた。

 一つは、自身の力がほかの竜に劣っていないという自負。

 そしてもう一つは――


 ――君は、全力で空を飛んでいないんだろう。


 竜乗りが乗る竜は、基本的に力をセーブする。

 力のある竜ほど、その傾向は強い。

 理由は簡単だ。


 ――力のある竜が全力で空を飛べば、どんなに腕のいい竜乗りでも間違いなく振り落とされるから。


 それはフレデリクでも例外ではなく、先代当主アルフレアでも同じこと。

 ドラセリアの人間は至高の竜乗りになることを常日頃から目指しているが、その道ははてしなく険しい。


『フレデリク兄さんはレース中、もしかしたら君に無茶なお願いをするかもしれない』

『そうかもしれませんね』

『そのとき、君の判断で行うべきではないと思ったら、その願いは無視していい。おれたちはフレデリク兄さんを失うわけにはいかない』

『……』


 たとえレースに負けることになっても。

 レイデュラント家の誇りが潰えようと。


 ――生きていなければ、意味はない。


『もうおれたちは家族を失いたくないんだ』

『それはわたしも同じ気持ちです。わたしにとってあの方は家族も同然。あの方の弟や妹であるあなた方も、もちろん同じく』

『うん。……ごめんね、つらい選択を君に委ねてしまって』

『いいえ。あなたほどではありませんから、そう気負いにならないでください』


 アルマージはそう言ってミアハの体を優しくその翼で包んだ。


『じゃあ、おれは行くよ』

『風が強くなってまいりました。どうかお気を付けて』

『ありがとう』


 風が強い日は良くないことが起こる。

 ドラセリアの迷信であり、そしてまたミアハ自身の経験則でもあった。


 それからミアハは初老の竜育師に別れを告げ、侍女の操る馬車に揺られて屋敷への帰路につく。


 ミアハの運命、あるいは宿が動き出したのは、そのすぐあとのことだった。

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