第5話「末弟と末妹」
「ミアハ様、なにも屋敷の中でまで武器を携行しなくてもよろしいのではありませんか?」
その日の夕方、明日に控えた式典に備えて早めに眠るため、一足先に夕飯を食べようとしたミアハが部屋の外へ出ると、いつものように扉の横でじっと待機していた侍女に引きとめられた。
「これがないとバランスが取れないんだ」
この黒髪の侍女は、若さと裏腹にとかく仕事ができるが、少し口うるさい。
誰もがフレデリクの侍女になりたいと裏で熾烈な競争を繰り広げる中、そんなもの眼中にないと言わんばかりに幼いころからミアハの専属侍女として希望を出し続けた変わり者でもある。
「そっちこそ、今日はもう仕事はいいから、早めに部屋に戻って休んだらどう?」
「いいえ、主人がご就寝なされる前に休むなど、侍女失格ですので」
真っ黒に染まった髪はどことなく重苦しさを感じさせそうなものだが、彼女の場合はその冷たい美貌を強調するアクセントになっている。
「かたくなだなぁ」
「ミアハ様ほどではありません」
そんな彼女とは違って、ミアハの髪は真っ白だった。
昔はそうではなかったが、例の『悲劇』を経て以来、ずっと髪の毛に色素が表れなくなった。
「まるで命を使い切ったかのようだ」と周りにうわさされたものだが、ミアハ自身はそのことをあまり気にしていない。
「肩をお貸ししましょうか」
「いや、自分で歩けるよ」
左手に持った杖を廊下の先につく。
滑らないことを手の感触でたしかめてから、杖を支点に右足を跳ぶように前へ。
まるで子竜がまだ飛べない時期にぴょんぴょんと跳ねるように。
これが今の自分に出せる最高速度。
片足のない自分に出せる、限界。
「おれはまだ、歩ける」
「……そうですね」
侍女には悪いと思いつつ、杖があるうちは自分で歩くことに決めていた。
人間、歩かなくなると途端に身体が弱っていくものだ。
片足を失ってからそのことに気づいた。
正直に言ってしまえば、これを歩いていると言えるのかは自分でもわからないが、それでも自分で動けるうちは自分で動くようにしている。
「お兄ちゃん!」
と、屋敷の中庭に面したほど長い廊下を歩いていると、つきあたりからひょっこり顔を出した少女がいた。
「――ルナ」
「また無理して! なんでお兄ちゃんっていつもそうなのよ!」
レイデュラント家の長女にして末子、ミアハにとって唯一の妹。
〈ルナフレア・レイデュラント〉だった。
「ほら、肩貸すから!」
「いや、いいんだルナ。おれは自分で歩く」
ルナフレアは
炎を含むかのように赤いその髪は、夕日に照らされて今日も美しく輝いていた。
「あ、また刀持ってる! 何度言ったらわかるのよ! 屋敷の中でそれは必要ないでしょう!?」
侍女が後ろで同意するようにうなずいているのがわかるが、ミアハは彼女にしたのとまったく同じ答えをルナフレアに返した。
「これがないとバランスが悪いんだ」
「だったら別の方法を考えればいいのに……」
「これがいいんだ」
「お兄ちゃんって昔から頑固よね……」
黒い鞘に入った刀は、竜騎兵が竜上で使うにはいささか長さの足りない得物だが、ミアハには昔からこれが手に馴染んだ。
「お兄ちゃん、もしかしたら前世は極東の出身だったのかも……」
その昔、この武器は極東にある島国でよく使われていたという。
その島国はすでに地盤ごと海に没してしまっていて、『古代の海中都市』として観光名所になっているが、海流のせいかずいぶん劣化が進んでいて、最近ではその保全事業がドラセリア国内でも行われていた。
「わたしがいるんだから危険なんてないでしょ! 武器なんて部屋においといてよー!」
「嫌だ」
「もうー!」
ルナフレアは頬を膨らませてぴょんぴょんと跳ねる。
その動きこそまだ十三歳の少女らしいが、すでに片鱗を表しているその美貌は、社交界であらゆる世代の男を惹きつけてやまないともっぱらのうわさだ。
どちらかというと後ろにいる侍女に近い系統の顔で、庭の隅に咲く
「ルナはおれの自慢の妹だけど、口うるさいのがたまにきずだ」
その能力にいたっても、通っている学園で『はじまって以来の天才』とたたえられ、名実ともにたいそう人気らしい。
「『自慢の妹だ』で止めてくれてもよかったのに……」
そう言いつつへにゃりと顔をほころばせているルナフレアを見て、「よし、うまく話をそらせた」と確信したミアハが再び歩きはじめる。
「それで、これからご飯食べるけど、ルナはどうする?」
「もちろん食べる! お兄ちゃんと一緒ならいつでも食べる!」
とてとてと自分の後ろをついてくるルナフレアが力強く言う。
――兄離れはもっと先かな……。
ルナフレアは年の近いミアハによく懐いていた。
ほかの兄との仲が悪いわけではないが、長兄フレデリクに対しても、次兄ラディカに対しても、ルナフレアは『お兄様』や『兄様』と呼ぶ。
兄妹であると同時に、あるいは親と子の間柄でもあるような、独特の距離感を保っていた。
そんな中、ミアハだけは『お兄ちゃん』だ。
「というか、お兄ちゃんのことだから今日は早めに
ルナフレアが夕日のように赤い瞳をきらきらと自信に輝かせて言った。
「そうなのか。それは楽しみだな」
「あ、ホントは楽しみだなんて思ってないでしょ!」
「思ってる思ってる」
「わたしの手料理なんて、学園一の男子生徒でも食べられないんだからね!」
ルナフレアの作る料理はいつもおいしい。
おいしいが、ややレパートリーに欠ける。
理由はたぶん、自分の好きなものが偏っているからだろうとミアハは思っている。
ルナフレアは決まっていつも、ミアハの好きなものばかり作った。
「ちなみに、学園一の男子生徒って?」
屋敷の廊下の曲がり角を曲がりながら、ミアハはなにげなく訊ねた。
「リエンザ子爵よ! わたしと同じで、学園はじまって以来の秀才と言われてるわ」
「今年の学園は豊作みたいだな」
「お兄ちゃんも来ればいいのに……」
ミアハは特別どこかの学園に通ったりはしていない。
昔はそうではなかったが、片足を失ってからは屋敷で自主的に学問に励むことがほとんどだ。
毎朝学園まで通うのも大変だし、行ったところで変な気を使われるのは目に見えている。
あまりそういうのは、好きではない。
「お兄ちゃんだったら魔術の講義とかでヒーローになれると思うんだけどなぁ」
「おれはルナみたくなんでもできるわけじゃないから、それは無理だよ」
「でも、誰よりも術式を編むのが早いじゃない」
「それだけだよ。おれにはもう魔力がないから、どれだけ術式を編むのが早かろうがなにもできない」
優秀な魔術士になるには燃料的素質と技術的素質、そのどちらもが必要とされた。
後者は努力でどうにかなるが、前者はそうもいかない。
魔術の源となる燃料――『魔力』の総量は生まれつきだいたい決まっている。
鍛練でまったく増やせないというわけではないが、あまり期待できるような成果は出ない。
だからみなが魔力を貯蔵しておくことができる魔石装具のたぐいを求め、今なお高額で取引が行われている。
ミアハはかつて、
しかしそれはあの悲劇を経て、生死の境から帰還したときからこつぜんと消えてしまった。
――きっと、代償だったんだろう。
本来なら死んでいたはずのところを、自分の魔力が身代わりになってくれた。
ミアハはいつも、そう思うようにしている。
「とにかくおれは、おれのやりたいことをやるよ」
そう言ったとき、一瞬ルナフレアの表情が暗くなった。
ちらりとその表情を見たミアハは、内心で「しまった」と思った。
「ルナ」
「うんうん、なんでもない。さ、行こう、お兄ちゃん!」
ルナフレアはミアハがドラグーンになりがたっていたことを知っている。
そしてミアハの片足がなくなり、その道が閉ざされたことも知っている。
なにより彼女は――
「ルナ、いつも言っていることだけど、おれの足がなくなったのはお前のせいじゃないよ」
「……うん、わかってる」
そう言いながら振り向いた彼女の目は、どこか潤んでいた。
――本当に、お前のせいじゃないんだ。
自分の片足を奪った事故は、けっして兄妹たちのせいだったわけではない。
あれは不運な事故。
きっとあの日自分が立っていた場所にほかの兄妹が立っていたら、同じようにみなを助けようとしてやはりなにかを失っただろう。
だからミアハは、その役目が自分にあったことをむしろありがたく思う。
――兄さんたちや、ルナでなくてよかった。
そう心の中でつぶやいたとき、ずきりと、見ないようにしてきたものが胸の奥で
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