第15話 ベツレヘムから遠く



ひみつの話をしましょうか。


これは、強い願いを持つにいたったとある人のお話です。


――――あるところに、クリスチアンという青年がおりました。


クリスチアンは、物心ついたころからずっと絵を描いています。地面に木の枝や石で、木の板や羊皮紙に木炭で、画材は色々あるわけですが、とにかく絵を描いていました。


来る日も来る日も絵を描き続けたクリスチアンは、いつしか「画家」になっていました。周りの大人たちが、クリスチアンの絵でお金を儲けようとしたのです。当時、生前に絵が売れなかった人も珍しくはありませんでしたが、クリスチアンはすこしちがいました。


「腕に神が宿っている」のだと、人々は噂しました。


クリスチアンは絵が描ければ他のことには構いもしないし、すこしめずらしい見た目をしていましたから、周りの大人たちが利用するのにはうってつけだったのです。


クリスチアンは、自分が描き終わった絵には興味を示しませんでした。彼の頭の中には、次々と描きたい絵が浮かんで、前に描いたものを見返している暇がなかったのです。それでも何枚かは大事な絵があって、それは誰にも売らせませんでした。


絵を描かせてくれる大人のほかに、一人だけ友達と言える女の子がいました。エヴリーヌという女の子です。エヴリーヌはとてもおてんばで、広い庭を走り回ってはドレスを傷だらけにし、小言を言うお手伝いさんにあっかんべーをするような女の子でした。

クリスチアンが絵を描いたりご飯を食べたりしている部屋にも、窓から転がり込むことがよくありました。鍵をかけている窓から入ってくるので、クリスチアンはいつも驚いて筆が滑ってしまい、いつからか鍵は開けておくようになったのです。この部屋だけなら、盗まれるようなものもありませんしね。


「君ってば、じっとしていないからモデルにできないんだよ」

「知ってて?クリスチアン、こうしている間にも時間は私たちを通り抜けて、私たちを大人へ推し進めようとしているのよ」


ふたりは性格も好みもバラバラでしたが、とっても仲良しでした。お互い気を遣わなくてよくて、隠し事も、嘘の自分も、なにもいりません。


「お母さまがね、従妹のジョアンヌと仲良くしないからって一時間手をつなぐ刑にしたのよ。でも、近くにいるもんだから余計にけんかしちゃったの。けんかばっかりするくらいなら離れた方がいいと思わない?」

「エヴリーヌは難しいことばかり言うなあ」

「あなたが絵を描いてる間に、世間ではいろんな問題があふれてるのよ。次に手つなぎの刑にされたらジョアンヌの手をかじってやるんだから」


ここには、ふたりの人がいたにすぎないのです。


「子猫のメランジェがね、メランジェって呼ぶよりも『かわいいふわふわちゃん』って呼ぶ方が返事するのよ。自分のことをかわいいふわふわちゃんだと思ってるの。丸めた黒い布みたいな顔をしてるのに!」


クリスチアンが絵を描いて、エヴリーヌが好きなことを話します。それはとても心地よく、小鳥のさえずりや小雨の降る音、木々のざわめきを聞いているような気持ちになりました。


「暇か暇じゃないか、って難しいのよね。お稽古くらいなら行かないことにもできるけど、友達との約束は暇にはできないもの」

「僕とのこの時間は、暇になるのかな?」

「暇だったらもっとやることがあるわよ。お昼寝したり、紅茶を飲んだり、お菓子を食べたりね」


いつしか絵だけでなく、その時間を大事に思うようになりました。


「私の思う私の幸せと、母親が思う私の幸せって同じじゃないのよね。でも、私の幸せなら私が思う私の幸せを貫くべきじゃない?」

「エヴリーヌは難しいことばかり考えてるね。疲れない?」

「疲れたらお菓子をたべてお昼寝するからいいのよ」


でも、それはあまりにあっさりと終わってしまいました。その頃クリスチアンの国で起こっていた内戦。エヴリーヌは、それに巻き込まれて帰らぬ人となりました。戦争はよくないことだ、嫌だと語っていた彼女は、戦争に巻き込まれて亡くなったのです。エヴリーヌは、もう世界のどこにもいません。


「君を奪った戦争が、どんなにひどく醜いものか!」


クリスチアンは、戦争の絵ばかり描くようになりました。絵の具は赤と黒ばかりが減り、青や緑は手も付けられません。


絵は前よりも売れ、次から次へと戦争の絵を描きます。


クリスチアンは、疲れていました。


それでも戦争の絵を描かせようとする大人たちにひたすら頼み、クリスチアンは寝食も忘れ、何日も何週間もかけて、たった一枚の絵を描き上げました。


誰のためでもない、自分のためだけの絵でした。


ただの一度もモデルにできなかったエヴリーヌを、自分の記憶から引きはがすようにしてキャンバスに吹き込んだのです。


来る日も来る日も、食べるのも眠るのもそこそこに、ひたすら絵の具を塗り重ねました。そこにエヴリーヌを存在させようと、世界の何もかもを無視して。


そうして出来上がった「エヴリーヌ」。


クリスチアンは、「エヴリーヌ」が完成した途端に眠り込んでしまった。


世界のすべてだった「エヴリーヌ」。


夢の中で、クリスチアンはエヴリーヌといつもの時を過ごしていました。


そうして決めました。「エヴリーヌ」と旅に出ようと。目が覚めたら、適当な荷物をまとめて、二人で誰もクリスチアンのことを知らない田舎で暮らそうと。しかし、そうはいきませんでした。


「エヴリーヌ」は、売られてしまったのです。


クリスチアンは叫び、嘆き、喚き、「エヴリーヌ」を探し続けました。


「エヴリーヌ」は、クリスチアンの手からひらりひらりと逃げるように、どこを探してもありませんでした。絵を買ったという人の家に、エヴリーヌがかつてクリスチアンの窓でそうしたように、こっそり鍵を開けて忍び込んでも見つからず。もしかしたら、最悪な、考えたくもないことですが、憎き戦火に焼かれてしまったのかもしれません。


「あれは、僕だけのエヴリーヌだったんだ。世界でたったいちまいの、エヴリーヌの肖像画だったんだ。僕のすべてが、理想の絵がそこにあったのに!!」


クリスチアンは、部屋に残るすべての絵をペインティングナイフで切り裂きました。誰も修正などできないように細切れにして、暖炉に放り込みました。割れたガラスから、雪が舞い込んできます。我を忘れるほどに暴れたからか、手には血がにじんでいます。赤い絵の具なのか血なのか、もうわかりませんでした。


「同じ絵なんて、あれと同じ絵なんて、きっとこの先どれだけ生きようとも描けるわけがない」


クリスチアンは激しく絶望し、強く願いました。


「エヴリーヌを、もう一度……!」


気が付くと、クリスチアンは真っ暗闇の中にいました。


暗闇の中にぼんやりと、キャンバスや画材が置いてあります。クリスチアンは、ふらふらとした足取りで近付き、筆を取りました。


やっぱりエヴリーヌに届かないと涙を流しても、何枚も、何枚も。


必要なものは何でも、気が付くとそばにあります。食べ物も、飲み物も、いつの間にか家だってありました。


窓の外の季節は移り変わり、いつしか冬のままになりました。家の周りにもたくさんの建物や人が生まれ、大きな街になっています。


必要もなく届けられる毎日の新聞には、知らない情報ばかりが書いてあって、いつしかその時代を理解できるまでになりました。


クリスチアンには、それでも足りないのです。いつでも足りないのです。


ただ一枚の絵をもう一度生み出すには、時間が途方もなく足りないのです。


気を紛らわすために描いた別の絵が、誰かのプレゼントになるらしいと知りました。


いつからかここは毎日がクリスマスで、毎日プレゼントが送られてくる。


どれだけエヴリーヌを願っても、どれだけたくさんの絵が描けるようになっても、青や緑の絵の具がたくさん減るようになっても、本当の願いは叶いませんでした。


ある日、絵にサインを求められました。


クリスチアンは少し考えて×を描き、またさらに少し考えて左上と右下に少し線を付け足しました。この街に対しての皮肉でもあります。


「これは……?」

「僕は、χ(カイ)っていうんです。どうぞ、よろしく」


誰も知らない、秘密の話。


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