始
しばらく無言の時間が流れたが、陽斗は迷うように視線を泳がせた。
「六花はさ、いつから俺のこと好きだったの?」
陽斗の手の甲を撫でていた六花の手がピクリと反応して静かに引っ込められた。陽斗は今までその手の話を聞いてこなかった。家庭教師になる前から好意を寄せられていたことに気がついたときも、告白されたときも、そこには興味がなかった。けれど今は聞いてみたくなった。
「答えないと、ダメ?」
「できれば聞きたいな」
六花は赤く染めた頬を両手で押さえて陽斗を見上げた。答えられないわけではないけれど、陽斗が自分のことに興味を持ってくれている事実に浮かれてしまう。
「えっと、初めて会った日のこと覚えてる?」
「ああ。六花が中学生のときに陽菜とバレンタインのお菓子を作りに来たときでしょ?」
「さすが。記憶力いいね」
嬉しそうな六花を前に、全員の初対面の記憶がある訳ではないなんてキザなセリフは思っていても言えない陽斗だった。
「あの日、私はキッチンで陽菜とクッキーを焼いていて、陽斗くんは2階で勉強してたんだよ。でも私の作ったクッキーだけ焦げちゃって苦くってさ。落ち込んでたときに休憩に下りてきた陽斗くんが何も知らないで私のクッキー食べちゃって。急いで水渡そうとしたのに、陽斗くん美味いって言ってどんどん食べちゃって結局1枚も残らなかったでしょ?」
「ああ、食べきってから明日友達に渡すの作るって言ってたなって思い出して慌てて謝ったな」
その日の陽斗は陽菜から友達が来ると伝えられていたことで1日中なるべく部屋から出ないようにしようと考えていた。
陽菜はオシャレが好きで今どきの子という表現が似合う。そんな陽菜の友人の前に流行やファッションに興味がない自分が出ていくことは迷惑になるだろうと、陽菜が小学生のころから陽菜の友人には会わないように気をつけていた。
集中して英語検定の勉強をするためにちょうどいいとも考えたが、集中しすぎて陽菜が友人を連れてきていることが頭から抜け落ちていたのだった。疲れ果てた頭をスッキリさせようと1階に常備していたチョコレートを取りに行ったのだが、ダイニングテーブルの上にこんがり焼けたクッキーが目に入った。陽菜や母は時折お菓子を作って置いておいてくれることがあるから自分の分だと思ってしまった陽斗は、そのクッキーに手を伸ばした。
「美味い」
いつものクッキーとは違う、苦味の中に確かに感じる優しい糖分が驚くほど美味しくて勝手に言葉が溢れた。そして満足いくまで無心で手を動かし続けた。
すっかり食べきってしまって顔を上げると、キッチンに呆然としている陽菜と知らない女の子がいた。その子の赤くなった目元を見た瞬間、陽斗は欠片だけが残ったお皿に視線を戻した。
「ごめん!」
陽斗が深々と頭を下げると、キッチンから出てきた六花は水の入ったコップを陽斗に差し出した。おずおずと頭を上げた陽斗がコップを受け取ると、六花は視線を彷徨わせた。
「あの、実はこれ失敗したやつなんです。あとで自分で食べようと思って置きっぱなしにしちゃってて。こちらこそごめんなさい、苦かったと思うので水、飲んでください」
言いながら目を潤ませる六花に、陽斗はキョトンとした目で首を傾げた。
「じゃあ、食べきっちゃっても大丈夫だったの?」
「えっと、大丈夫といえば大丈夫ですけど……」
「なら良かった。見た目はまぁ焦げてたけど、味はちゃんと美味しかったから。また作るなら自信持って頑張ってね」
すっかり満足して問題も解決。陽斗は壁時計をチラリと確認すると水の入ったコップを持ったまま自室に戻って行った。
残された六花は状況が理解できずに固まっていた。キッチンからその肩を叩いた陽菜は、顔の前で手を合わせた。
「ごめんね、あれうちの兄でさ。いろいろ常識外れだったりするけど味覚は悪くないから、おにいが美味しいって言うなら絶対美味しいんだよ? だから次、頑張ろ?」
「うん!」
すっかり晴れ晴れとした顔になった六花は、失敗したものを食べても美味しいと言ってくれた陽斗に成功したものを食べてもらいたい一心でクッキーを焼いた。帰る前に渡そうと思ったが、いざ渡すとなると緊張して渡せなくなった。結局クッキーは陽菜に託して氷室家をあとにした。
「あの日、陽斗くんの優しいところに救われてから気になるようになったの。会う度に好きだって自覚する他なくなって、どうしようって思ってた」
陽斗は眉を下げて笑う六花を見て奥歯を噛み締めた。
話が切れた絶妙なタイミングでオムライスが届いて2人で食べ始める。陽斗は顔を綻ばせる六花を見ながらあの日のことを思い出していた。
「俺もあの日、六花のこと可愛いなって思った。ただまあ、小動物を前にした感じに近かったけど」
陽菜とは違う清楚な黒髪の少女。陽菜にもこんな友達がいるのかという驚きを感じたのは自室に戻ってからだった。あの日六花を前にした陽斗はその赤くなった目元と震える声がウサギのようで愛おしく感じていた。
六花は突然話し始めた陽斗に驚いたように眉をピクリと上げたが、初めて聞く話に黙って耳を傾けながらオムライスを口に運んだ。
「その日のあとから六花がうちに来るたびに陽菜が俺と会わせようとしてきたから不思議には思ってたけど、家庭教師を頼まれたときが1番驚いた。素直な子だとは思ってたし全く知らない子を相手するよりは良いかと思った」
陽斗に六花の家庭教師をしないかと言い出したのは陽菜だった。六花の気持ちを直接聞いたことはなかったが、陽斗に特別な感情を抱いていることにはすぐに気がついた。
「お土産とか貰っても礼儀正しい子だなくらいに思ってたのに、ストラップの件で六花の気持ちに気がついた。家庭教師をしているうちに六花がすごい勢いでアタックしてきてくれただろ? それもあって少しずつ気になるようになってたらしい。告白されたときは素直に嬉しかったんだよ。伝わってたかは分からないけど」
陽斗が話は終わったと言わんばかりにオムライスを口に放り込み始めると、六花はスプーンを置いて水を飲んだ。
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