持って行くもの
茅ケ崎からの帰りは家に寄らずリヒトさんのいる病院へ向かう。これは予定通りではあるが、本日の最終目的地は病院の近くにある旅館だった。そこで宿泊して明日になれば病室から僕は過去へ旅立つ。なかなかのハードスケジュールだ。
道中で念願のスーパー銭湯へ寄って服を洗濯することができた。乾くまでに小一時間ほど昼寝をする機会を設けたものの、なんだか眠っている時間が惜しくて何度も目が覚めるのを繰り返した。
「寄りたいとこある?」
車の窓から遠くに見えた丸ビルもオアゾも僕の迎える明日にはもう存在しない。
「―――――ううん。大丈夫」
うつらうつらしていた僕に運転席から質問が投げかけられる。顔を上げると助手席の千明さんも船を漕いでいるのが見えた。
皆それぞれ同じようにくたびれていたから、三人共が帰りの運転を買って出た。「俺がいくよ」「俺がいくよ」と、某倶楽部みたいに「どうぞどうぞ」とはならず結局ジャンケンで決めることになり、絶対に敗けられないと意気込んだものの呆気なく僕は敗れた。マユルくんに心理戦で勝つにはどんな修行を乗り越えればいいんだろう。都心のビル街が窓の向こうを流れてゆく。
未練がましい顔をしていただろうか。
目的地に着くまでは眠らないように頑張って起きていた。運転を変わるつもりでいたのもあるけれど、
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8月1日 8:30
起床したのは仕事をしていた頃の始業時間だった。
病院の近くに用意してもらっていた旅館―――――保養所と呼ぶようだ―――――で目が覚めると、随分と長く眠ったように感じた。そんなこともないのに、と思い出す。夜中まで飲んだというのにスッキリ起きられたのが不思議だった。
昨日という一日は
一方で。温泉に入った後で浴衣を着た記憶はあるのに、それは枕元に畳んで置かれていた。寝る間際にでも暑くて脱いだのだろうか、昨日のことは忘れないと心に刻んだばかりなのに早速忘れているのが恐ろしくなる。決意とは。自分がTシャツとハーフパンツを着用しているのを確認してから、俯せのまま上半身だけを起こす。腰に悪い体勢だ。
「お風呂行く人~?」
自分でも笑っちゃいそうになるくらいガラガラに干からびた声で僕が呼びかけると、寝転がったままの二人から唸るような返事が聞こえる。浴場に他の入浴客はいなかったけれど、海でのように足で水を跳ねさせたりはしない。ただ静かに湯を浴びることに徹した、ただ品行方正に。身を清めようなどとも考えてはいなかった。どうしようもなく喋り倒したいという気持ちはあるのに案外と言葉は湧いてこない。心の何処かで話し足りなくなってしまうのを恐れている。「はい、時間切れ」という瞬間が来て遮られることを。
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朝食は食堂でのビュッフェか部屋で摂るかを昨日の夜に聞かれて、満場一致で部屋を選んでいた。食べている途中で席を立つことに抵抗がありビュッフェスタイルというものは苦手に感じていた。慣れていないというのもあるし、それにビュッフェと上手く発音できない気がする。考えてみたら声に出して言ったことが無かった。そのくらい僕にとっては馴染みのないものだ。
千明さんとマユルくんがどうなのかは解らないが、「部屋で食べる」という結論が一致したということで問題ないだろうと思うことにする。昨日のことなんか嘘だったみたいに静かな朝だ。窓の外には砂利の敷かれた庭園が見えて、小鳥が囀る音まで聞こえてくる。
朝食には野菜と豆腐の他に梅干しと三種の焼き魚と納豆、生玉子に味噌汁が運ばれて来た。あとは御櫃に入ったご飯。
「食堂でも良かったかもな。これじゃ普通過ぎるだろ」
「いつでも食べられるじゃんな。ナッツごめんな」
「それが良いんでしょ」
何を言っているの。まだ
「移ろわぬもの、よきかな」
「然り」
二人は妙に納得してくれた。時は刻々と過ぎてゆく。
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