paradox

 サビ柄の猫が日陰でくつろいでいる。今日も三匹揃っているようだった。マユルくんの姿を見つけると一匹が「にゃぁ~ん」と鳴いた。他の二匹も同じように鳴いた。

 千明さんは神妙な顔をする。くしゃみを我慢してしているのかもしれない。

 また三人で自動ドアを通り、5階の静かな廊下を黙って歩いた。今日はリヒトさんの点滴の日だった。あれは若返りの点滴らしい。




「強めの養命酒みてえなもんだな」

「全然わかりません」

「なあ千明さんよ、養命酒って若返るんだっけ?」

「知らんけど」



 でもきっと、そういう作用が強く出る調合がされているという意味では本当なのだろう。あるいは人に知られていない特効薬Xが秘密裏に開発されているという可能性もある。リヒトさんの髪の黒い部分が明らかに増えていた。初めて会った時よりも肌に弾力があるのが触れなくてもわかる。




「俺が間に入ればリヒトは能力以外の・・そうだな。わかりやすく言えば、体力なんかを削らなくて済む」

HPヒットポイントMPマジックポイントで説明してやれよ」

「確かにその方が解りやすいですけど。そんなことしてマユルくんは大丈夫なの?」


 説明の方法のことではない。見た目が若いから少々老いるのが早くても構わないのだろうか。二十歳くらいだと思っていたのに、僕よりも1歳年上だったことに驚いたばかりだった。言葉を交わすことがなければ高校生だと思ったくらいには若く見えていた。



「大丈夫なんだよ」


 千明さんが腕時計に目を落として言った。

 思えば、鳥海社長から説明を受けた内容ではような言い方をしていなかったか。可能なことが判明した、というような。もしかしたら千明さんは、に立ち合ったことがあるのだろうか。



「まあ、それは追々な」

「はい」



 追々か。

 僕があっちへ行くまで三週間を切った。依頼主とは四十人ほどと会っている。地方へ行くこともあって、退職する前よりも忙しく過ごしていると言えた。あっちへ行ったらしばらくのんびりするつもりだった。



「俺はちょっと、別の見舞いに行って来るよ」 


 千明さんはそう言って席を外した。きっとトラオさんの話していた殺さない方のアサシンのところへ行ったのだ。



 ********************



 今日のことは僕にとっては唐突な提案だった。



「予行練習みたいなものだから」



 マユルくんが言う。リヒトさんにヨーグルトのような物を飲ませたところだ。口の周りを拭いてあげているのが幼い兄弟みたいで微笑ましい。



「波長を合わせてみよう」



 え、そんなことどうやって?



「大丈夫だ、俺がやるから」



 マユルくんと目を合わせて、お互い照れ笑いをする。話が早い。


 薄いピンク色のカーテンを閉めても西日は強くて背中がぽかぽかと温かかった。寝たままでいるリヒトさんの左側に、ベッドに沿って横並びになる形でパイプ椅子に座る。


 リヒトさんが小さく頷くとマユルくんが僕の額に掌をかざした。直接触れてはいないのに、その部分が温かい。てのひらの冷たさも伝わってくるのに温かい。もう片方の手はリヒトさんの手に乗せている。僕は言われたわけでもないのに目を閉じていた。額から温かさが広がり頭部の外側を一周する。急速に訪れた強い微睡まどろみの中で一つの光景が浮かんでくる。それは映画の場面シーンを思い出すのに似た感覚だった。


 最初に見えたのは病室で眠っている老齢の女性。それと傍らにいるのはリヒトさんだろうか、面影があるような気がする。今目の前にいる彼よりもうんと若くて少しだけふくよかだ。艶もある。それから少し気が弱そうに見えた。


 まだ若いリヒトさんが思い詰めたような表情で目を伏せる。立ち上がって病室を出ようとした時、誰かとすれ違った。

 視界が切り替わる。都心にある古いビルにいるのはわかったが、すぐに場面が変わった。と言っても場所は変わっていないようだ。少し新しくなった同じ場所に立っている。―――――————時間を遡ったのだ。こっちは夜のようだった。


 単四電池ほどの大きさをした懐中電灯を持って真っ暗なビルの中を壁伝いに進んでゆく。

 リヒトさんの不安な感情が流れ込んできて僕も不安になった。僕は今マユルくんを通して、目の前のことをリヒトさんの目線で見ているのだと実感する。

 時々胸を押さえる。時間を飛ぶ行為自体が消耗するのだ、そう聞いていた意味が感覚として解った気がした。疲労もあるが、それよりも自分が痩せたように感じている。体は軽いが健康的な状態ではない。目的の部屋に着き、デスクの引き出しを開けた。USBを掴む。


 場面は次々と変わる。


 さっき来た暗い廊下を速足で戻っている。チェーン店の肉屋さんの前で若い男女が一瞬だけ手を握り合う。二人が知り合いではないことを何故だか僕は知っている。見たことのある梵字と筆を持つ魔女。情景が次々と浮かんだ。



「オプションだ」



 笑いが少し混じったような声が聞こえると、更に時間を遡った。これがだ。見知った顔に出くわして僕は思わず声を漏らした。



「千明さん」


 

 千明さんが煙の中に立っていた。千明さんは小さい頃に火事で家族を亡くしていると聞いたが、リヒトさんを通して見る千明さんは大人の姿だ。でも今よりも少し若い。眉間に皺を寄せて煙に覆われて、瓦礫を退けている。ここもやはり火事の現場のようだった。手伝いに行きたいのに体が僕の意思では動かない。夢の中でそんな風に行動が制限されるのを漫画で読んだことがある。


 思い出しているうちにリヒトさんが千明さんに駆け寄った。場面が飛ぶと、隣に立った千明さんは小柄な女性を肩に担いでいた。まさかさらって来たわけではないだろう。千明さんはこっちを向いてすすけた鼻を拭ってから「ありがとう」の形に口を動かした。音声は無いらしい。容量の関係だろうか。



「そういうわけではない」

「あ、今のは覗いたよね?」


 マユルくんが「フッフフ」と笑う。

 すぐに場面が切り替わった。また暗いビルの中に戻った。


 背後から頭部を殴られた。痛みは無いが衝撃は受ける。なんとか現在に戻って来たものの、膝の力が抜けて視界は暗転する。自分は泥にでもなってしまったようで、地面と溶け合うみたいな感覚だった。闇に飲まれた。




 次に光が射した時、真っ先に映ったのは年老いた女性の倒れた姿だった。眠っている。何故だか深い眠りだと直感的に思えた。


 ―—————自分リヒトさんのお母さんだ。リヒトさんの体からスッと血の気が引いて、同時に鼓動が跳ね上がる。音を立てずに打つ脈は速い。そこから時間を行ったり来たりする感覚が小刻みにあって何も見えなくなった。

 

 今度は倒れたリヒトさんが見えた。現在の姿よりももっと年老いている。

 ―――これはマユルくんの視界だ。最初に見たのも、きっとマユルくんの目線でだった。

 


 肩に手が置かれて目が覚める。寝ていたわけではない、現実に戻って来たのだ。Tシャツ越しに触れる冷たい手は小さく震えている。正面にいるマユルくんは項垂うなだれれていた。





「頼むよ」



 声ではない言葉で、そう語りかけて来る。



「母さんと兄貴リヒトを助けてほしいんだ」




 リヒトさんはいつのまにか寝息を立てている。きっと体力を使って疲れてしまったのだろうと思った。 




「多分ただ腹いっぱいになったから寝てるだけだ。夏海くんは疲れてるか?」

「僕は―――いいえ、特には」



 さっきまでと変わらず部屋は快適で、息が上がることもなく疲労を感じてもいなかった。背中に汗をかくのではないかと心配だったが、それもない。至って健康です。


「―――さすが適合者だ」



 ********************



 リヒトさんとマユルくんのお母さんは治癒能力を持ったヒーラーだった。

 人の病気や怪我を癒すことができたが、それをしまうことがあった。それに能力を使った後は決まって疲労感に見舞われ老け込んだように見えてしまった。実際おとろええてしまったのだろう、リヒトさんと同じように。



「だから、よほどの時にしか力は使わないようになったんだ。それはそれでキツかっただろうな」



 ああ、そうだ。

 救える筈の人を救えないのだ、自分を守ることと引き換えに。凡人の僕には想像することしかできないが。


 ただ、その能力を用いた為に衰えた部分は少しずつではあっても回復することができた。それはリヒトさんにも言えることらしい。



「俺とリヒトは安心したんだ。母は無暗むやみに人を助けるのはやめるって約束してくれたから」




「もうやらない。お母さんだって早く老けるのは嫌だもの」



 そんな風に笑って話していたし、お母さんは回復を見せていた。



 ところがある日、過去へ飛んだリヒトさんが負傷して帰って来た。リヒトさんは戻って来た途端にその場で倒れ込んでしまった。残っている力を振り絞って帰って来たのだ。文字通り命がけで。

 さっき僕が見た、夜のビルでのことだろう。



「当時の新聞を社長が持ってたからわかったんだ」


 大怪我を負った被害者の行方がわからない

 連れ去られたのではないか


 当時の新聞には防犯カメラに写った、頭部から血を流して倒れているリヒトさんの写真が載っていたそうだ。マユルくんと一緒に駆け付けていたお母さんは当然リヒトさんを助けたいと思った。



―――――――――————



そしてお母さんも今この病院にいる。もうずっと、リヒトさんがこうなる前から眠ったままでいる。




「だから、リヒトはに戻ろうとして」




 あの夜に戻れば、とリヒトさんは考えた。背後からの打撃を受けなければ。負傷さえしなければ。リヒトさんの考えていることの意味にマユルくんが気付いた時には遅かった。



「俺もリヒトもまともな判断ができなくなってたんだと思う。それはもう混乱していたから」



 リヒトさんの手がマユルくんの指に触れるのが「ごめん」と言っているように見えた。こんな風になって、ごめん。


 マユルくんの口調は決して怒っているようには聞こえない。とても穏やかだ。達観したみたいに。




「あの夜へ戻ったりなんかしちゃいけなかったんだ」



 

 だって




 その夜のその場所には、前回飛んだリヒトさんが既にいる。

 










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