1995年の花火大会

 

 事務所はマンションの一室だった。と一言で言っても、大変な高級マンションかと思われる。まず駐車場に停められている車が凄い。高級感と重厚感が凄い。

 エントランスでトラオさんが番号を押すと自動ドアが開いた。暗証番号は随分と長く設定されている。



「どうぞどうぞ、此処です」



 ドアが開く直前にトラオさんが小声で言う。3階で開いたエレベーターを降りると、清潔さが徹底された廊下は静まり返っていた。外から車の通過する音が聞こえることがあるくらいだろうか。室内からの生活音が響くような様子は無い。



「やっぱりお仕事柄、防音なんですか?」

「――———そうですね、防音です」



 僕が小声で聞くとトラオさんは少し黙った。声を発しない方が良かったかと不安になったが、返事をしてくれたから少しだけ安心する。


 

 他にも不安があった。映像や音響の事務所だ、きっと大変な機材があるに違いない。汚したり壊したりしないように気を付けなければ。勿論ソファも高級だろうから引き続き気を付けなければ。


 玄関ではトラオさんが暗証番号を押す前にドアが開いた。中から女性がトラオさんに囁きかける。



「おかえり。お疲れ様」

「お疲れ様です。お連れしました」



 トラオさんも小さな声で答えた。



「どうぞ、お待ちしてました」

「お邪魔します」



 此処ここでは小声で話すルールがあるのかと思ったが、そういうことでもないらしい。玄関に入ってドアを閉めると女性の事務員さんが笑顔で迎えてくれて、トラオさんと普通の音量で話し始める。それに釣られたみたいに男性が部屋から出て来た。



「いらっしゃい。すいませんでしたね、遠いところ」

「あ、お邪魔してます」



 肩の下まである長い黒髪を後ろで束ねている。この人が社長なのだとすぐにわかったが、根拠は無い。



「ちょっと、玄関に密集しすぎ」



 狭いから!と事務の女性が男性を部屋に押し込む。三人と、僕も笑った。明るい会社だな、というのが僕の印象だった。僕とトラオさんは靴を脱いでスリッパに履き替えた。



********************



 レコーディングスタジオで見たような機材を想像していたから拍子抜けしたが、その分ほっとしたとも言える。これで少なくとも壊したりしてしまう危険は無くなった。

 部屋にあるのは―――シンセサイザーと呼ぶのだろうか、鍵盤のあるキーボード。SEサウンドエフェクトを作るようなことを言っていたからそれに使うのだろう。他にはMacのデスクトップと大きなモニターが2台ずつ、あとはノートパソコンが1台だ。



「宮澤です。彼女は事務の・・チカ、名字何だっけ?」

「いいよ、チカで。よろしくお願いします」



「二人は同級生なんです」

 


 二人のやりとりにどうリアクションして良いものか驚いているとトラオさんが教えてくれた。

 ああ、そういうこともあるだろうか。

 寛治かんじさんはバッグを肩にかけたトラオさんに「直帰してもいいし、早く帰れるのなら戻って合流してもいい」「時間外はきちんとチカに申告すること」と念を押していた。



「周、帰る準備して来いよ。飯行こうぜ」

「あら~、ごちそうさま」




 周さんは飄々と答える。気難しそうにみえる寛治さんを上手く転がしているように見えた。といっても、見た目ほど気難しくもなさそうだ。顎が細くて繊細そうではある。砕けているのは周さんに向かってだけ、ということもあるかもしれない。警戒心の強い猫のような目をした寛治さんの後ろから「行ってきまぁ~す」というトラオさんの間延びした声が聞こえて玄関のドアが静かに閉まった。



「夏海くんも行こう、そこで話すよ」





********************



 

 トラオさんの言っていた通り中華料理店だった。やっぱりとわかる外装で、個室のコースメニューだ。もらったおしぼりからは良い匂いがする。個室の壁を眺めているうちに僕の古い記憶が蘇った。池袋の東武か西武かは不明瞭だが、高層階の中華レストランには何度か行ったことがある。母方の叔母が連れて行ってくれた。何かお祝いがあったり、母と叔母がお芝居を観に行った帰りなんかについでに呼んでもらった。姉さんの婚約祝いが最後だった。


 周さんが僕達に確認もせずビールを三つ頼んだ。さすが、スマートではある。寛治さんが事務所に泊まって行くようにと言ってくれたから僕はお言葉に甘える所存だった。明日は依頼主のところまで送ってくれるとのことだ。高級車で。


 店員さんが去ると寛治さんがクリアファイルに入ったコピー用紙を回転式のテーブルの上に置く。証明写真が貼られていた。そこに写っている男は不愛想で、分厚い唇は曲がっていて締まりがなく、大きな歯が見えている。黒目が恐ろしく小さい。


 すぐに運ばれて来たビールを周さんが受け取っている。店員さんが明らかに制服だとわかる服装なのを考えると、最初に挨拶に来たパンツスーツ姿の女性は店長さんだったようだ。


 

「この男の素性を調べて欲しいんです」


 

 写真を見た瞬間、はっ、と周さんが息を飲む。笑顔が一瞬で消えてしまった。この話を続けるべきなのか僕が返事に迷っていると、寛治さんが周さんの肩に右手を置いた。僕も息を飲みそうになった。寛治さんの右手の中指が不自然な曲がり方をしていたからだ。それに気が付いたのか、そういうリアクションには慣れているのか寛治さんは優しい顔で笑うから申し訳なくなる。僕はサトラレを克服しなければならない。



「お願いしたいんです。できれば1995年の8月5日を迎える前までに」

「・・・1学期中がいいね」



 気を取り直すように自分の胸に手を当てて、周さんも言った。明らかに息を整える。



 1995年8月5日は土曜日だった。

 彼らの地元では花火大会があって、その夜に女子中学生が殺害される事件が起きた。被害者は二人の吹奏楽部の後輩だ。



「この男が――――重要参考人、・・てところですか?」



 僕はビールを飲みながら、探偵じみた口調になってしまったことをこっそり恥じる。まだ一杯目だというのに。二人は顔を見合わせた。話を進めるのは寛治さんの方に決まったようだ。



「そうなんだけど、いなくなってしまって」



 誰も男の正確な素性を知らなかった。偽名を使っていたらしく、出身地だという場所を調べてもそんな人間は見つからなかったという。在学しているという有名大学にも、経営者が知り合いで手伝っていたという人気の飲食店にも籍があった形跡は無い。所属していたという芸能事務所も、芸能一家だという家族構成に至るまで――――もっとも、そんなことを真に受けていた者はいなかったのだが――――真実なんて何ひとつ残されていなかった。きっとそんなもの最初から無かったのだ。

 

 今度は周さんが話してくれた。

 花火大会から時間が経って、早瀬氏はもう一度現れた。今度は周さんの友達も襲われかけたが事なきは得たそうだ。周さんがご友人と別れてすぐだった為にできた。それっきり姿を消したのだという。



「存在はしていたんですよね?早瀬千聖さんは」

「疑いたくなるよね」



 名前がもうイケメンすぎる。きっと憧れが詰め込まれているのだろう。

 自称早瀬氏は、カラーコンタクトを装着している日はヨーロッパ系のハーフであったりクオーターになってみたり、翌日には田園調布の出身であったり、数分もすれば生まれてから小学校までニューヨークで育ったり、そこで亡くなった両親がまだドイツに住んでいたりと落ち着きの無い人だった。オーディション番組の最終選考にも残ったことがあるそうだ。早瀬氏の話で唯一一貫していたのは1995年の時点で休学中であることと、特待生であることだった。大学の特待生って何。奨学生とは違うのか。僕は大学生になったことが無いから、聞いたことのない、実態を全く想像できない言葉だった。海外や国内の様々な有名大学を休学中だったらしいから、規定も学校ごとに各々違うのかもしれない。



「エア・エリートだよ」

「夏海くん、あっちで是非その二つ名を付けてやってくれ」



 周さんの言葉に笑った後で寛治さんが言った。思っていたよりも寛治さんは笑うし冗談も言う。



「承知しました」



 僕はペンを走らせる。寛治さんはまた笑った。僕は嬉しくなる。

 早瀬氏(仮)のことでその他に共通したことと言えば居場所を転々としていたことだ。一つのコミュニティに入っても数ヶ月も属さずに抜けては別へ行く。入院するとか留学するとか理由はやはり多様にあったようだ。アルバイト先を一年間で何度か変えていたらしい。偽名でもアルバイトの採用をされるものなのだろうか。二十年以上前のことだから、僕には想像もつかないような融通が利くこともあったのかもしれない。個人店であれば考えられないこともない気がする。

 



「鳥海社長に頼んでも見つからなかったからさ」

「・・・それは」



 鳥海社長でも見つけられなかったとなれば確かに当時まで遡らなければ何も出て来ない気がした。そんな理論があるか、この酔っ払い!と思う自分もいるのだけれど、もうそういう考え方が根付いてきてしまっている。彼にできないことなんて。



 


「夏海くんは鳥海社長をどんな人だと思ってる?」



 周さんから質問を投げかけられた時、ドアをノックする音がした。



 ラストオーダーを聞きに来た少しの沈黙の後で、防音の個室には静かにヒーリングサウンドが流されていることに気が付いた。この音を聴いて不快になる人はいないだろうと思わせる静かで涼やかな音色だった。眠気を誘うのにも良さそうだ。



「私は困ってる人を見つけて来る人なんだと思ってた」



 周さんが言う。鳥海社長のことだ。



「私が困ってた時に現れたから」



 リストラに遭ってしまい、職安で順番待ちをしていたところに鳥海社長から声をかけられた。出向いた住所にいたのは二十年近く疎遠になっていた同級生の寛治さんだった、というのはまた別の話。ついでに話しておくと周さんは特殊能力者ではない。



「ちょうど事務できる人を探してたんだよ」



 寛治さんは確かに笑顔が少ない。ぶっきらぼうとは少し違う、笑うことを制御しているかのように見えた。そうすることに慣れてしまっているような。でも笑わないわけではない。洞察力の鋭そうな猫目を細めると、温かい表情には優しさが感じられた。それを隠しているようにも見える。



「それで鳥海社長に頼んだんですか?」

「探してるとは世間話程度に言ったけど頼んではいないよ。とんでもねえのが来るだろ、あの人に頼んだら」

「あら、確かにそうだね」



 鳥海社長がなかったことを託されたなんて荷が重いようでいて、その対極である気もした。失敗しても「社長にもできなかったんだから」と許してもらえるのではないか。いや、絶対に遂行してみせるけれど。


 早瀬氏(仮)の素性が判ったら当時の二人に教えることになった。正確にいうと当事者は五人。全員が高校一年生だ。僕はペンを止める。疑問に思ったのだ。



 その高校生たちに情報を与えれば、花火大会の夜に起きた殺人事件は防ぐことができるのだろうか。それが目的であると二人がはっきり言葉にしていないことが少しだけ気になっている。



「あいつらはよね」



 周さんは何故か誇らしげだった。寛治さんもその横顔を見て口元を緩ませる。

 


「―———できると思う。それでも情報が掴めなかったら、俺に伝えてくれないか」

「犯人が他にいるかもしれないしね」

「未来から来たなんていう人間の話を寛治さんが信じるとは思えませんが」


 胡散臭い眼で見られて無視されそうな気がしている。寛治さんにはそういうクールさがある。

 僕の言葉に周さんが吹き出す。寛治さんも苦笑いをした。



「多分信じるよ」

「その頃は素直だったよね」

「・・そうだったな」

 


 照れたように少し俯いて、ジントニックの入ったグラスの淵を持つ。寛治さんの左手の指はピアニストみたいに細くて長くて、手入れを怠らない女性のように綺麗に整っていた。




「帰りは家まで送れって、俺にってやってくれ」






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