第68話

「怖くなんかないよ……」


 アルが小さく呟いた。私はぱちぱち目を瞬いた。

 視線だけ動かすが、後頭部と旋毛が見えるだけで何もわからない。


 アルが今どんな顔をしているのか、確かめることができなかった。

 でも。表情よりも何よりも、その声音が雄弁に語った。


「僕、僕ね……全部我慢できると思ったんだ。ユキがいなくなっちゃうなら、死んじゃうなら、それを防ぐためならなんだって大丈夫だって。痛いのも辛いのも怖いのも、独りぼっちも寂しいのも誰にも助けられないのだって……ユキが死んじゃうぐらいなら、そんなもの何でもないと思ってた。でも……」


 いつの間にか背中にアルの両腕が回っていた。力強い腕が私を抱き込む。


 それでも肺は圧迫されないし、あばらは折れそうになったりしない。しっかりと、力加減された、心地の良い抱擁だった。


「怖かったんだ、本当は。ユキが誰かのものになっちゃったら。僕の知らない僕のいない世界で、ユキの隣に誰かが立ったら。それに、それに……ここで一人で消えちゃって、ユキに二度と会えないのが、たまらなく怖かった」


 声が震えた。私の肩口に何かの感触があった。冷たい。濡れている。すぐに分かった。この水が何か。だけど口に出すより早く、アルが毅然と言い放つ。


「でももう怖くない。大丈夫。ユキと一緒ならなんだって怖くないから」


 アルの声は確かだった。震えてもいなかったし、かすれてもいなかった。はっきりと、希望に満ち溢れていた。


 私は笑った。


 アルの背中に手を伸ばす。広い背中は暖かい。触れ合った先の体温が溶けて交わっていくようだった。


 そう言えば、菅原さんが言っていた。私たちの体温を一定に保つのは、恒常性というシステムなのだと。生物に備えられた自動調節システム。魔王であるアルにはないのだろうか。これも私の姿を真似たただの模造体温なのだろうか。


 だけどそんなことはどうでもいい。今、目の前のアルが暖かい。私が信じられるのは、ただそれだけなのだから。


 アルが顔をあげる。強く上を見上げている。何かがやってくる。アーサーが言っていた。地表生物を絶滅させるリセットボタン。絶滅ミサイル、とかなんとか。


 これを最後に飲み込んで、自壊しようとしていたと……駆動限界を終えた体を終わりにしようとしていたと。アーサーはそう語った。


 だからこれで最後だ。


「ユキ。来るよ」


 うん、と返事。私の声を聴いてアルは笑った。


 初めて見た、優しい、穏やかな、満ち足りた微笑み。


「……うん。ユキ。世界が終わっても一緒に居ようね」


 私も笑った。世界が終わる。私たちの世界が。この中で終わる―。

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