第67話

よく見えないが多分、体の表面を脈打たせているのだろう。

 一体何が言いたいんだろう。私がそれを確認するよりも先に、その体が光り輝いた。


 この世界には光がない。光すらも飲み込む悠久の中、ただ時間だけが漂っている。

 その中ではじける光輝―あまりの眩しさに目をつむる。


 そして、次に目を開けた時には、見慣れた姿がそこにあった。


「……アル」


 つややかな黒髪。真っ白な肌。そして何より、それ自体が美しく輝く赤い瞳。


 何度目にしたかわからない、ここ数か月ずっと隣にいたその影が、相も変わらず私の前に立っている。


 笑いかけると目の前の影が揺れる。珍しく、彼は私の前で怒ったような顔をしていた。


「なにしにきたの!」


 ような、ではなく怒っていたようだ。びりびりと空気が鳴動する。


 アルにしては珍しい、腹の底からの怒りを込めた声。


 これでもかと眉根を寄せて、アルは勢いよく私に迫った。


「何しに来たの、なんで来たの、どうしてここにいるの!ユキはここに来ちゃダメ。今すぐ帰って。今、帰って!そうじゃないと僕怒るから!」


 アルが私の肩を掴む。肩を掴む大きな手のひら。それを一度確認した後……私はもう一度アルに向き直った。


「帰らないよ。アルと一緒に居る」


 アルの目が見開かれた。

 そっと、自分の肩に向かって手を伸ばす。そこにはアルの手が添えられている。


 上から被さると一度大きく跳ねるように反応して……かたかたと小刻みに震えてはじめた。


 私はその手を握りしめた。上から、強く、しっかりと。

 暗闇の中でも確かに感じる体温が、アルの手から伝わってくる。


「帰らないよ。大丈夫。アル。一緒に行こう。ありがとうね。私を守ろうとしてくれて。……ごめんね」


 アルの顔が歪んだ。眉毛が一気に垂れ下がり、眉間に強く皺が寄せられる。薄く開いた口からは苦しさにあえぐような吐息が漏れていた。


 反対側の手をそっと伸ばす。

 アルはこんな時でも律儀に頭を下げて、私に撫でられるのを待っていた。


 触れた髪の毛は相変わらず絹糸のような触り心地で、手のひらから滑ってこぼれていった。


「やだ、やだ、ユキ……。なんで、なんで来ちゃったの、だって僕、そのために」


「うん。うん。ありがとう」


「死にたくないって言ったでしょ!だから僕、全部我慢したんだよ!死んじゃうことも、痛いことも、辛いことも、苦しいことも……ユキから離れることも!全部、全部そのためならって、君がそう願うならって、そう思って我慢したのに!」


「……そうだね。ごめんねアル。私のためにここまでしてくれたんだよね。嬉しい」


「ほんと……?」


「うん。すごく嬉しい」


 アルが何かを言いかけて、物憂げに目を伏せた。じっくり何かを考え込む表情でしばらく黙り込むと……熟慮の末に重苦しい唇を開いた。


「許して、くれる……?」


 恐る恐る、私のことを伺いながら、おずおずと問いかけてくる。


 頭を撫でていた手が止まった。思い出すのはマンションの出来事。


 そう。本当ならついさっきの出来事のはずなのに、もうすでに何日も経ってしまったように感じる。


 アルもきっとそうだろう。ずっとずっと、それだけを考えて、ここまで来たのだ。


 やっぱりもう、駄目だ。


 観念するしかない。この災害は隣にいすぎた。理解不能と切り捨てるには、私の心に食い込みすぎている。


 アルがバケモノだろうと、人外だろうと、私以外の人間を本質のところでは何とも思ってないのだとしても。そして私を人間扱いしていなかろうと。そんなことは今や些細な問題になり果ててしまった。


 道理も正しさも公正も、何もかも今は無意味だ。だとしたら正しいのなんて気持ちしかない。


 私の感情がこの魔王に向いてしまっている時点で、詰みだったのだろう。


「うん。怒ってないよ」


 肩のアルの手を外す。その手を強く握りしめた。胸の前でしっかりとつかんで、手のひらのうちに握り込む。アルの手がかすかに震えた。


「だから大丈夫。一緒に居るからね。怖くない……ってのは無理か。無理だな。ごめんね。こんなことさせて。だからせめてここに居るよ」


 アルが目を開いてこちらを見る。何かをこらえるように歯を食いしばって、それでも何も口に出すことはなかった。


 代わりにそっと手を伸ばした。掴まれていない方の手を私の肩に回して、私を抱き寄せた。


 いや、抱き寄せた、というよりは……縋りついてきた、の方が正しい。


 アルは私の体にしがみついて、肩口に深く顔をうずめた。


 ぐす、と鼻をすする音が聞こえる。


 いつの間にかこうやって静かに泣けるようになったのかと、こんな時なのにアルの成長が嬉しかった。

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