第61話

「いい加減にしろ!」


 真横から聞こえてきた声に思わず肩が跳ねた。


 目の前のアーサーの目もまあるく見開かれている。


 が、それがすぐに不機嫌そうな半目になると……ぎろりと、不愉快さを隠そうともしない視線がそちらに注がれた。


 菅原さん。


 色付きグラスの奥の瞳。それが眼鏡からはみ出さん勢いで見開かれている。


 寄せられた眉が眉間に深い皺を刻んでいた。


 怒っている。


 どうしてかわからないほどに、菅原さんは怒っていた。


 あの日、アーサーを前にした時と同じように。


「さっきから聞いていればよくもぬけぬけと。面の皮が厚いのはどちらだ。人間の世界を土足で踏み荒し、挙句お前らの道理を押し付けてきているのはどっちだ!」


「土足で踏み荒らす?道理ィ?何言ってんの菅原。意味わかんないこと言って煙に巻こうとか、それこそ道理が通らないじゃん」


「やかましい!お前たちが一ノ瀬さんを人間扱いしていない以上、こちらもそれ相応の対応をしているだけだとわからんのか!」


 びりびりと空気が震えた。

 音一つない暗闇の中、菅原さんの声が辺り一帯に響き渡る。


 これにはさしものアーサーも鼻白んだ。


 息を詰まらせるアーサーをしり目に、菅原さんの視線がこちらを向く。


「一ノ瀬さん。そいつの放言に騙されないでください。魔王はあなたを人間扱いなどしていない。その相手に人間らしい情と誠実さでもって応えてやる必要がありますか?」


「に、人間扱いしてない?」


「ええ。だって……魔王はあなたの意思など欠片も尊重していないではありませんか」


 今度は私が息を飲む番だった。


 私の意思。それをアルが尊重していない?


 いや、そんなことはない。アルはむしろ、私がそう言うのならと言うことを聞いてくれて。


『無理だよ。君とそれ以外を選ぶ場面で、僕は絶対君だけを選ぶ』


 脳裏にあの瞬間の映像が蘇った。


 貫かれる健太君。ためらいなどなかったアルの動き。その後の問答。

 揺らがない視線。当り前のような顔で、私だけを優先させたアルのこと。


「一ノ瀬さん。魔王の献身は確かに美しいものでしょう。でもそれはあなたの事情を何一つ考えていない、独りよがりな自己満足です。あなたがどう思うか、あなたが何を感じるか、そんなものは関係ない。ただあなたがそこにいればいい。自分の愛の受け皿として、存在だけがあればいいと思っている!そんなもの愛玩人形とも……いえ、もはや木偶の棒とも扱いが変わらないではありませんか。魔王にはあなたの意思を理解する気も尊重する気もありません!」


 菅原さんの視線がさっとずれた。


 視線の先にいるのは一人のみ。


 アーサー。


 相変わらず不機嫌そのものの表情のまま、菅原さんを睨んでいる。


 菅原さんは真正面からその視線を受け止め返した。


「そもそも。向けられる好意に応えることこそが誠実だと?受け取る相手がどう思うか、どう反応するか。返すか拒むか反応しないか、そんなものは相手の勝手だ!思っているから受け入れられるはずだ、相手もそれを感じて許してくれるはずだ?なんてグロテスクな対価主義!踏み違えるな。愛は献身の対価ではない。好きは無分別な行為の免罪符ではない!そこを理解できない以上、お前たちはどれだけそれらしく見えても人間ではない……まさしくバケモノそのものだろうよ!」


 叩きつけるように菅原さんは叫ぶ。


 最後に一度大きく息を吐くと……もう一度、私を見た。


 グラス越しに視線が合う。


 穏やかに、冷静に。いつもの菅原さんの口調で。

 それでも抑えきれない激情をにじませながら、菅原さんは私に語った。


「もう一度言います。一ノ瀬さん。最初からあなたは巻き込まれただけのはず。私たちには理解のできない理屈で思いを寄せてきて、そのままあなたの人生に取り憑いた存在。それが魔王。まさしく災害だ。突然降り注いで逃れようもない、呪わしいまでの偶然!その相手があなたのために身を捨てている?こちらを人間扱いもしない理屈でもって?そんなものに心を痛める必要はない。無用の罪悪感を抱え込むのは、タチの悪い自己陶酔に他なりませんよ」


 しん、と辺りに沈黙が落ちた。

 私も菅原さんも、それ以上言葉を発しなかった。


 辺りで動くのは相変わらずのふざけた落書きの道の景色……時折暗くなったり明るくなったり、蛍光灯のように瞬いている。


 ちっ、と。その静かな空間に落ちる音。


 言わずもがなアーサーだった。ここまでの不機嫌な顔は見たことがない。

 剣呑で強烈で壮絶な表情が、美しい少年のかんばせに現れている。


「随分適当なことばっかり言ってくれるじゃん。俺たちのことバケモノって言いたかっただけじゃない?そうやって都合の悪いもの排斥して理解の埒外に置いときゃ楽だもんね」


「なんとでも言いなさい。そもそもあなたも言っていたでしょう。私たちは生きる規格が違うと。翻訳機能は十全に働いていますか?どうもこの話題になってから随分と効きが悪いようですが、私の言ったことは理解できていますか?」


「はは、そんな風に思ってたの?残念ながら絶好調。君の言葉も聞こえてるし、俺の意思も届いてるよ。舐めるなよ若造。たかだか数十年程度の躯体が俺に何を語ろうって?」


 菅原さんとアーサーの舌戦はやまない。

 目の前を二人の言い争いが通過していく。


 人間としての道理を語る菅原さん。思いへの誠実さを語るアーサー。


 双方一歩も譲ることはなかった。


 お互いの主張が根本からして真っ向からすれ違っている……翻訳機能のミス、などではない。そもそもがこの二人は分かり合えない。


『無理だよ。君とそれ以外を選ぶ場面で、僕は絶対君だけを選ぶ』


 アルはそう断言していた。


『さよなら!』


 そうしてアルは笑って去った。


 私を人間扱いしない魔王は、私を人間扱いしないまま、自分の恋に殉じて発った。

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