第48話

ただ、まあ、菅原さんにはしっかりと私の状態が伝わったらしい。

 眼鏡を一度カチャリと鳴らすと、先ほど以上に平易な言葉で話が始まった。


「一ノ瀬さん。植物が二酸化炭素を吸収し酸素を放出するのは知っていますよね」


「ええ、まあ、それぐらいは……」


「そう。逆に動物は酸素を消費し二酸化炭素を排出する。ところで、地球の気温が平均十五度程度に保たれているのは、二酸化炭素のような温室効果ガスのお陰という側面があります。太陽からの熱放射によるエネルギーを受け取り貯蓄する……二酸化炭素やそのほかアンモニア、窒素等の気体の働きにより、生物にとって最適な気温が保たれているわけです」


「はあ……」


「しかしこの気温の安定性は当然のものではない。現在の大気組成-生命にとって最適な量の酸素濃度、温度を維持する適切な二酸化炭素そのほかの気体の割合。それらが少しずれれば途端に影響を及ぼすほどに、微妙なバランスを保っている」


「ああ、えっと、あれですよね。二酸化炭素の濃度が上がったから地球が温暖化しちゃってるって」


「まさしく。さて。どうして地球の大気は生命にとって適切な組成を保っていられるのだと思いますか?」


「へ?どうして?」


 大気組成がどうして適切に保たれているのか、なんて言われても。

 そもそも当たり前のように存在している空気に対して何か考えること自体がまれだ。さっきから菅原さんが語る事物も全て初耳に過ぎる。


 そんな状態で何かコメントできるはずもない。

 私はただただ困惑して菅原さんを見上げた。


 またも私の内心を推し量ったのか、菅原さんは私の答えを聞くことなく話を続けた。


「生命にとって最適な割合が保たれている。これは当然の出来事ではない。科学的平衡から考えれば地球の大気組成は実に奇妙な構成をしている。例えば大気中にはメタンと酸素が同時に存在しています。これらは太陽からの放射熱によって二酸化炭素と水蒸気に分解されるのですが、反応速度から考えて、現状のメタン濃度を一定に保ち続けるには年間十億トンを新たに産出しなければなりません」


「じゅ、十億?」


「ええ。かなり非現実的な数字です。しかし現実として地球の大気組成は一定に保たれている。生命活動によって生じる酸素、二酸化炭素、窒素、メタン、そのほかの産出物、そして太陽からの絶え間ない放射熱、種々の外敵・内的要因……すぐにでも崩壊しそうな割合をどうしてか続けている。生物にとって都合が良過ぎる状態を、です」


 菅原さんの説明はよどみない。まるで理科の授業でも聞いているかのよう。


 科学的な素養の無い私でも、とりあえず地球の大気環境が尋常ならざるバランスのもとに保たれているという事実は伝わってきた。


 感心してぽかんと口を開ける私の周囲で、いくつものクエスチョンマークが躍っていた。


「火星や金星は生命が住むには厳しすぎるほどに酸化した惑星と化しています。そこから考えると地球の環境は奇跡……いえ、最早奇妙とすら言える。まるで、自身にとって最適な組成を保つ自己調節機能を備えているかのようなのです」


「自己調節機能?地球に意思がある、っていうんですか?」


「いいえ。そんなオカルトではありませんよ。動物や植物が示し合わせ、酸素の吸収量や二酸化炭素の排出量を決定していると言いたいわけではない。しかし、まるで示し合わせたがごとくお互いの活動がかみ合って地球環境が安定しているのも事実。それらの相互作用の連関は生物の体のようにも解釈できる、というのがガイア理論の確信です」


 目を瞬いた。予想外の言葉を前にして息を飲む。驚いた顔の私に対して、菅原さんは更に続けた。


「私たちは砂漠に行こうと北極に行こうと血が沸騰したり逆に凍り付いたりはしません。暑いときは汗をかき、寒いときは震えて熱を発生させ、体内の状態を一定に保とうとする……生物に備わるこの性質は恒常性と呼ばれています。ホメオスタシスともいいますね」


「あー、なんか聞いたことあるようなないような……」


「ええ。体の各部は自律神経系や内分泌系の働きにより、常に一定の安定状態を保っている、あるいは保とうとしている。呼吸や脈拍を調節し発汗を促し、体を緊張させ、外環境の影響が出ないようにしている。そしてこの恒常性がごとき性質が地球にも備わっている。地球上の生物圏が生物にとっての臓器に該当するとみなせば、地球は自律的なフィードバックシステムを備えた生物と解釈することができるのです」


 正直言ってしまうと、これだけかみ砕いて説明してもらっても私にはいまいち理解が及びつかなかった。


 地球は自律的なフィードバックシステムを備えた生物と解釈できる。生命にとって最適な環境を創出し維持管理する一個の生命体。


 言いたいことはなんとなくわかるが、あくまでなんとなくであって、その本質までは理解できない。スケールの違う話過ぎて理解が追い付かなかった、とも言う。

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