第39話

宿泊室の戸を開けて、体を中に滑り込ませる。

 ひどく疲れていた。とにかく消耗していて、何も考えごとをしたくなかった。


 情報を何一つ取り入れたくない。

 とにかく目を瞑って眠っていたい。


 外から差し込む月明かりと外灯すら億劫で、私はカーテンを閉じようと窓に近寄った。


「……あれ」


 なのに、気になってしまった。


 窓の外で明滅する光。


 機関本部の周囲は人が暮らしているような建物はなく、あるのは変電所やら貯水池やらの設備ばかりだ。


 私たちの今いる建物が宿泊棟、その隣には研究施設を兼ねた病棟。


 そう、だからこんな時間に人通りもなければ、動く人影も車もそうはない。はずなのだが。

 一体何が動いているというのか。


 あれほど疲れ切っていたというのに、私は引き寄せられるように窓に手を伸ばした。

 半分窓を覆いつくしていたカーテンに手を伸ばし、勢いよく横に引き抜く。


「え……」


 言葉を失った。開いた口が塞がらない。

 目の前の光景に茫然自失となり、思わずその場に倒れこみそうになった。


 光の壁。


 六角形を描く幾何学的な模様。それが淡く光を発し、窓の外を覆いつくしている。


 いや、違う。窓の外……この部屋だけの問題じゃない。これ、多分。


 窓に縋りつき、勢いよく開け放つ。


 この宿泊室は建物の五階部分に相当するため、それなりの高度に位置している。

 吹き抜けた風が前髪を揺らす。


 窓から身を乗り出した瞬間、あっと声をあげてしまった。


「アル……!?」


 アルがいた。


 見間違えるはずもない。世闇の中でも美しく艶めく黒髪、すらりと長いその肢体。

 機関本部に背を向けて、その場で立ち尽くしている。


 この距離で声が聞こえるはずがない。まして思わずこぼれた呟きのようなかすかな声を聴きとれるはずがない。そう思っていたのだが。


 アルが振り向いた。


「っ」


 アルの姿は小さかった。遠近法のお陰で、いつもなら見上げる彼の身体が、人形のようなサイズに見える。

 その状態で普通、相手の瞳なんか認識できない。


 だが。その赤い瞳と目が合った。


 アルの魔性の目。暗闇の中にあっても炯々と輝く強い瞳。それがこちらを見ている。幾何学的な光の壁。それ越しにアルと目が合う……。


 はっとした。大慌てであたりを見回す。


 光の壁は目の前だけを覆っているのではなかった。

 もっと高く、頭上を遥か超え高みまで、悠々と伸びている。


 高さだけではなく幅も同じで、壁の端が見通せないほどそれは大きく広がっていた。


 全体像が見通せない謎の構造物。だが、それでもなんとなく予想がつく。

 この壁はきっと建物全体を覆っている。


 規模の大きさから考えても間違いない。いや、それどころか。この機関本部を構成する建物…宿泊棟、研究本部、病棟、その他の関連施設。それら全てを包含する可能性すらあるのでは?


 アルは動かない。

 光の壁の外に立ち、じっと私を見つめている。


 赤い瞳が闇夜に揺らめく。

 未知の燐光を発する魔性の瞳。

 それが光の壁越しに私を見る。


 笑った。


 どうしてかわらかないが、アルがこちらを見て笑ったのをはっきりと認識できた。


「ひっ……!」


 背筋に怖気が走った。何だ。アルは何をしようとしている。


 私たちを閉じ込める謎の光の壁。

 こちらを見据えて笑うアル。


『ユキがあいつと仲良くしてくれたら嬉しいって言うから仲良くしてただけだよ』


『あれは人間ではない』


『もっと恐ろしくて、もっとどす黒い何かです』


「やめっ……!」


 何をしようとしているのか。何を怖がっているのか。それすらもわからぬままに叫んだ。

 そして。


 目の前で爆発が巻き起こった。

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