第37話

暗がりだった。


 おかしなことだ。ここは病院。機関に併設された、特殊な状態の患者を治療する特殊施設である。


 どれだけ特異的な施設だろうと医療機関は医療機関。通常の病院と内装や設備が変わるわけではない。


 だからこそ、今この場が暗がりになるはずがないのに。どうしてかその部屋は明かりが落ちていた。


 ざわ、と何かが蠢く音。本来なら数多の医療関係者でひしめくはずの部屋は、今は不気味なほどに静まり返っている。聞こえるのは得体のしれないその音だけ。


 人界のものとは思えない。耳に馴染まない不快な微音が、辺り一帯を這いまわっている。


「やめとけよ。これ以上嫌われたいの?」


 この場にそぐわない声が響いた。鈴を転がしたような可愛らしい声。闇夜の中でも失われぬ凛とした響き。


 こつ、と靴音を響かせて、その人物が戸口に姿を現す。


 小柄だった。廊下からの明かりに照らされて、逆光で強く顔に影が差している。

 それでもその面の美しさは一目で伝わった。この場に人間がいたなら、美しさに感嘆の息でも漏らしていただろう。


 暗く染まる顔の中で、その人物の最大の特徴……青い瞳がらんらんと煌めいていた。


 アーサー。


 魔王とその同伴者のもとに現れたもう一つの異常。金糸の髪と白磁の肌を持つ美しい少年が、戸口に凛然と立っている。


「魔王。その男の子を殺したら、今度こそあの子に見限られるぞ?」


 瞬間、何かが空を切った。その影はまっすぐアーサーに向かって飛来し、小さく薄い体を刺し貫く……かと思われた。が。


 アーサーはすでにその場にいなかった。影が貫いたのはアーサーの立っていた背後の壁面。突き刺さった箇所から放射線状にヒビが走り、細かな破片が落ちている。


「ほんと、俺の話を聞く気はないよなぁ。あの子のならどんな小さな話でも聞き洩らさないのに」


 頭上から声が降ってきた。


 戸口の上部から逆さまの頭が生えてくる。徐々に近づいてきたかと思うと…そのまま部屋の中に割り込んできた。中途にあった部屋と廊下を隔てる壁の存在を丸ごと無視して、体がするりとすり抜けた。


 地上を歩いている時と全く変わらぬ足取り。アーサーが天井を歩いて部屋の中に侵入してくる。


「だけどこれは本気の忠告だよ。魔王。悪いことは言わないからやめておけ。彼の命を散らしたら、お前はあの子と一生一緒にいられなくなる。世界を人質に取ったところで彼女はお前を許しはしない」


 ぴくり、と。アーサーの目の前で、その影が反応する。


 薄暗い部屋の中、その影は闇に溶けていた。全体像が把握できない。だが、恐らくは通常の人間の体積をしていない。廊下から差し込む光に照らされて、ほのかに輪郭が映る。


 うぞ、と。それが不気味に揺らいだ。


「…あの子が見てなきゃあの姿だって意味ないってか?ほんと徹底してるよな。その一途さに涙が出るぜ。まあ、お前が人間のおままごとする理由なんてそれ以外にないし、そりゃそうか。わざわざ窮屈な人型の檻に自分を閉じ込めるだなんて無駄、本来のお前には搭載されてないんだから」


 アーサーが天井を歩いて闇に近づいていく。


 影がまたも揺らいだ。


 途端、アーサーが怪訝そうな顔をする。片眉を跳ね上げ、小首をかしげた後……呆れた声で続けた。


「どうもこうもそのままの意味だろ。魔王にはそういう機能がないんだよ。その場その場で一番最適な破壊行動を選択する。お前にあるのはそれだけさ。無駄とか、余分とか、情緒とか……そういう機能はお前に搭載されてない。そうだよ。本当はそうだったんだ。それがねえ。今やこうか」


 闇の奥、蠢く影のその奥で、誰かが眠っている。


 口に酸素マスクを付けられ、瞼を閉じて静かに横たわっている。

 年のころは十かそこらというところ。まだまだあどけなさを残す少年。


 夏川健太。件の隣に住む少年だった。


 腹を貫通した大怪我を受けて、機関に備え付けの病院に担ぎ込まれ……そして手術が終わった今はICUで眠っている。


 本来この部屋では二十四時間体制で看護士が立ち合っている。面会もごく限られた時間、限られた人数しか許されない、厳重に封鎖された区画だ。


 だが、どうしてか誰も彼らに気づかない。

 どころか周囲に人気はなく、静まり返ったままだった。


 少年のあどけない寝顔からはあまり生気が感じられなかった。

 青白い面は沈黙のままに横たわっている。


 それでもわずかに灯る血色が、彼の生を伝えていた。


「そんなに憎いか?彼女との断絶の原因になったそいつが」


 突如として闇が広がった。天井めがけて広がっていく黒々とした塊。

 アーサーの身体が半ばほどまで暗闇に飲み込まれ、ぞりぞりと奇怪な音が部屋の中にこだまする。


 アーサーの周囲を取り巻くそれが、徐々に徐々にとその体積を増し始めていた。


 それでもアーサーは臆することはなかった。

 どころか挑発的な笑みを浮かべた。


「教えてやろうか。あの子が許してくれる方法」


 闇が止まった。


 部屋中響いていた不気味な音も消え去り、一転して辺りは静寂に飲み込まれる。


 アーサーの嘲るような笑い声が辺りに響いた。


「俺は唯一模造人格機能を持ってるからね。一番最近産み落とされたそのための端末。この機能を得て活動してからすでに数万…あれ?もうちょっと?まあいいや。他の奴らと比べたら木っ端みたいなものとは言え多少は時が経ってる。だからこそ、人間の感情やら機微にはほんの少しだけ詳しいってわけさ。人間と接する機会が多い分、参考にできる知識がいくらでもあるからな」


 アーサーが歩みを進めた。

 闇が分断されるように引いていく。


 部屋の中に響くのは、少年のバイオリズムを計測する機器の音と、天井から聞こえる足音のみ。


「なあ、魔王。実を言うともう詰みなんだ。お前とあの子は一緒に居られない」


 闇がさざめいた。まるで動揺しているかのようだった。


 聞こえるはずのない音が聞こえる。

 音というには余りにもかすかな、肌で感じられる振動のような曖昧な何か。


「それでもお前はやるのか?ただあの子の気持ちが欲しいって、たったそれだけの願いのために。全てをなげうって、踏みにじられ、打ち捨てられても。何もかもを犠牲にして……その結果思いが返ってこなかったとしても。惜しくはないのか?」


 アーサーの問いかけののち、しばし静寂が訪れた後。


 闇の隙間から真っ赤な瞳が現れた。

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