第十話 断絶
第36話
赤い光だ。
明滅することもなくただひたすらに光を発して、廊下をうっすらと照らしている。
いくら夜とは言え、ここは室内。廊下には明かりが灯っている。目もくらむような明るさ、とはいかないが視界には事欠かない程度に明るい。
その中で光を放つ物体があったって、普通はそこまで目につかない。
はずだった。
赤い光。
それがどうにもこうにも目に焼き付いて離れない。
ここ最近ずっと見ている、真っ赤な光。闇夜の中で輝く目。
それに似ている、気がする。
『ユキ。僕とケンタが友達になったら嬉しい?』
首を振った。違う。思い出すな。私は頭の中からひたすらその記憶を追い出した。
赤い光の内側には、白い文字が躍っていた。手術中、の表示が鮮烈に映る。
溜息を吐く。事態は何も変わらない。私はただ待つしかなかった。廊下のベンチに腰掛けて、組んだ手の上に額を乗せる。もう一度長く息を吐き出して……私はとにかくひたすら待った。
どれほどの時間が流れただろうか。
突如として赤光が消え失せた。私は弾かれたように顔をあげる。手術室のドアを押しやって、その向こうから出てくる影。
「あ……!」
ベッドの上に寝かせられて、口元からは管が覗いている。それ以外にも私にはよくわらかない器具や処置の跡。
はっきり言って誰なのか判別すらできなかった。思わず立ち上がったけれど、何ができるわけでもない。
目の前を走り抜けていくベッドに乗せられた姿。それを目に焼き付けることしかできなかった。
廊下に立ち尽くすこと幾ばくか。こつこつと、静かな足音が廊下に響き渡る。
足音はやがて私の横で止まった。茫然とそちらを見上げて……私は見慣れた姿のその人と対峙することになった。
「菅原さん……」
色付きの丸メガネ。一部の隙もなく着こなされたスーツ。そして凍り付いたような無表情。
菅原さんが、薄いその唇を開いた。
「処置が早かったお陰で何とか持ち直しました。治癒術士がすぐに手配できたことも大きかったでしょうね」
ひゅ、と私の喉が鳴る。あからさまに動揺する私を前にしても、菅原さんの態度は変わらない。ただ私を見据えて小さく頷いた。
「じゃ、じゃあ、健太君は」
「ええ。無事です。このまま何事もなく休養すれば時期に目を覚ますでしょう」
一気に体中から力が抜けた。
足から崩れ落ちて、そのまま背後のベンチに受け止められる。
手が震えていた。目の前に出した手をじっと見つめる。
そして……自分でも気づかぬままに、声がまろび落ちた。
「よかった……」
組んだ手を額に押し付けると、指同士の凹凸が骨を刺激した。自分の出した声の響きがまだ廊下に残っている気がする。
「…魔王は」
思いっきり肩が跳ねた。
知らず知らずのうちに手に力がこもる。
握りしめた指の先は、血の気が引いて真っ白になっていた。
私の態度から何を察したのだろうか。すぐに落ち着いた菅原さんの声が辺りに響いた。
「配慮を欠いた発言でした。お詫びします」
「いえ。……私の仕事、です、し……」
唇と嚙みしめる。自分の不甲斐なさに涙が出そうだけれど、泣くことすらできなかった。そんな権利はないと思ったし、そもそも泣くだけの気力も力も根こそぎ奪われていた。
そう。本来ならこんな状態は許されない。魔王を拒絶し、その所在を把握せず放逐しているなどと。機関の上層部とやらが知ったら大目玉どころではないだろう。わかっている。そんなことは。
魔王がどういう存在なのか。野放しにできない脅威であることは、先ほどはっきりと認識出来てしまったから。
「……う」
奥歯を噛みしめる。ぎしりと歯を食いしばる音が響いた。それでも気持ちが収まらない。胸の中を渦巻くこれは怒りか、それとも。恐怖だろうか。
「どうして、健太君を…」
あんなに仲良くしてたのに。初めての友達だったろう。二人仲睦まじく遊んでいる様は微笑ましかった。ああ、アルもやはり子供だななんて、呑気に考えていたのに。
『ユキが言ってたから。あいつと僕が仲良くしてくれたら嬉しいって』
誇張も偽りも無かった。私が言ったから、私がそうしたら喜ぶと思ったから。だからアルは健太君と仲良くしていたのだ。
自分が健太君を好ましいと思ったからではなく、私の言葉を忠実に守っていただけに過ぎない。
だから、私と彼を命の天秤にかけられたとき、何のためらいもなく切り捨ててしまえる。
「わけわかんない……意味わかんないよ。なんで、アル」
どう考えても異常だ。私の言葉だけが全てで、私の命だけが全てで、他の何もかもは二の次、だなんて。おかしい、間違ってる、普通じゃない。理解できない。
『大丈夫。ユキ。絶対守るから』
あんな顔で、あんな優しい笑顔で、私を慈しむくせに、どうして。
「魔王とはそういうものです」
目を見開いた。
今この場にいるのは二人しか居ない。ベンチに座り込む私と、その横に立つ菅原さんだ。
菅原さんはいつも通りだった。手を後ろ手に組んで、一分の隙も無く直立している。
どこを見ているのだろう。目の前にあるのは廊下の壁と、ただの空虚だけ。
菅原さんは断固とした口調で告げた。
「十年前、魔王の降臨がありました。場所については詳しくは伏せます。日本の某所、とだけ言っておきましょう。当然我々機関員たちは魔王の討伐のために部隊を編成し出発した。……私もその部隊の一つにいました」
はっ、と思わず声が出た。十年前。そんな近くに魔王の降臨が。全然知らなかった。驚きに目を見開く私をよそに、菅原さんは淡々とした声音で告げた。
「当時の私はまだ下っ端も下っ端。後方支援の雑用係がいいところでした。同じぐらいの年頃の連中で不平不満を述べつつ語り合ったり。懐かしいですね。魔王の降臨地に到着し、部隊ごとに散会が告げられて、私は彼らと笑顔で別れました。終わったら飯でも食いに行こうと」
すでに嫌な予感がした。話の流れがあまりにもお約束過ぎる。それに。どういう文脈で菅原さんがこの話をし始めたのか……それらを重ねて考えあわせれば次の展開は予想がつく。物語ならお決まりの、あまりにも陳腐と化したパターン。
「同年代の中で生き残ったのは私だけです」
だけどこれは物語じゃない。現実だ。現実に起こった過去の話だ。
口元を思わず手で覆った。吐き気がこみあげてきた。それでも何も吐くものが胃に入っていなかった。昨日から何一つ口に入れていないことに今更気が付いた。これで吐くものも吐けない……いや。
そもそも私がしていいことじゃない。吐くだの、気分が悪くなるだの。この話で一番傷ついたのは、踏みにじられたのは、私じゃない。
「総勢二百人余りを超す機関員たち……応援に駆け付けた他国の術士、現地の自治組織、警察、機動隊、その他関係者。彼らは瞬く間に殺された。いえ。殺された、という表現は不適切ですね。あれはまさしく災害でした。近くに居る人間を否応なしに、無慈悲に、無分別に、無感情に選別する死の嵐。それが魔王だった」
菅原さんの声は静かだったが、しかし完璧にいつも通りというわけではなかった。
体の横にだらりと垂らされた腕……その先にある手のひらが、強く拳を形作ってこれでもかと握りしめられている。
握りしめた拳の隙間から、何か……赤い粘性のある液体が、滲みだしていた。
「私が生き残ったのはたまたまです。たまたま人より半歩後ろに立っていた。それだけのこと。そして、たまたま私より前に出ていた隊員は消えた。跡形もなく。文字通り、骨も残さず消え失せた」
菅原さんが振り向いた。廊下の薄明りの中、メガネの奥の瞳はガラスに遮られて見えない。色付きのそれが視線どころか目そのものを見えなくしている。
だが、そこに込められた感情は、見えずとも勝手に伝わってきた。
「魔王とはそう言うものです。人類に災厄をもたらし、不幸をまき散らす大いなる災害。理解しようとすること自体がそもそも不毛だ。あれはそのような尺度で推し量れる存在ではない」
菅原さんが腰を折った。ベンチに座る私に視線を合わせ、真正面からこちらを見据える。
近くで見えるグラス越しの瞳は…予想の通り、いや予想以上の憤りに彩られていた。
「一ノ瀬さん。忘れないで。どれほど愛らしかろうと、どれほど我々に似た姿をしていようと、あなたの隣にいる存在は人間ではない。もっと恐ろしくて、もっとどす黒い何かです」
菅原さんの断固とした声。こちらの反論を一切許さない声。静かな断定口調。
私は何も言えなかった。
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