第35話

その後のことはよく覚えていない。


 ただ、気が付いたら機関の人たちが集まっていて、健太君を担架に乗せて連れて行っていた。


 錯乱した脳みそでも連絡ぐらいはやれたらしい。ただただ健太君を助けたくて必死で、それしか考えつかなかった。


 健太君を乗せた車が遠ざかっていくのを見送って、ようやく体中から力が抜けた。


 足から倒れこみそうになるのを何とか気合だけで支えて居るような状態だった。全身が小刻みに震えている。少しも考えがまとまらなくて、悪い想像ばかりが脳内を埋め尽くしていた。


「ユキ」


 だけど、それが一発で一つになった。


 ゆっくりと振り返る。その場にいるのはほかでもない。とっぷりと落ちた夜の中で、赤い瞳が輝いている。


 アル。


 健太君を刺したアルが、私の背後に立っている。


 ふらふらと、覚束ない足取りで近づいていく。徐々に思い出してきた。健太君に近づこうとする私を制するアル。それを怒鳴りつけて離してもらったこと。その後のアルは奇妙なぐらい静かで、少しも健太君に対する感情を見せることはなかったこと……。


 気が付いたら私は、アルに掴みかかっていた。


「なんで健太君を刺したの!」


 アルと私では身長差が大きすぎて話にならない。私にできたのはせいぜいがアルの胸のあたりに縋りつくことだけだった。


 本当は胸倉を掴みたいぐらいだったけど、どうしても届かなかった。ただ、目に乗せた気迫だけで、こちらの感情は伝わっていると思った。


「なんで健太君ごと刺したの!?アルだって、あれが健太くんだってわかってたはずだよね!?それにその後だって全然悲しそうでも心配そうでもなくて……!なんで!健太君のこと、友達だったんでしょう!?」


 叩きつけるようにアルに叫ぶ。理解できない行動を、説明してくれと願っていた。だってそうじゃなきゃわからない。アルと健太君はあんなに仲良さそうにしていたのに。それなのにどうしてあんなことができたのか。


「君を殺そうとしてる奴がいた。そいつを排除する以外に考えることなんてない」


 私の動きが止まった。


 アルの声は静かだった。そして、いつも通りだった。冷徹なわけでも、面白がっているわけでもなく。ただ当り前のことを当たり前に言っている、という声音だった。


 呼吸すら止めて、目の前のアルを凝視する。


 アルはその紅蓮の瞳で私を見つめていた。


「言ったでしょ。絶対、君を守るって」


 私の手から力が抜けた。アルは何を言っている。私を殺そうとしてるやつがいた。だからそいつを排除する以外に考えることなんてない。私の命以上に重視することなんてなくて、だから、健太君だって切り捨ててしまえると。そう言ったのか。


「健太君は……アルの友達じゃないの?」


 祈るような気持ちだった。そうだと言ってくれと、半ば懇願していた。アルの瞳が不思議そうに瞬く。世闇の中でも鮮烈な赤。



「なんで?トモダチって人間同士がなるものでしょ。僕とケンタは友達になれない。僕はユキが喜ぶから、ケンタと仲良くしてただけだよ」


 まばたきのたびに見え隠れするそれは、まるで星が瞬いているようだった。


『僕がケンタと仲良くしてると、やっぱり嬉しいの?』


 夕食の時のアルとの会話が頭をよぎった。そしてそれと同時に思い出した。このマンションに越してきてすぐの時のこと。お隣さんに挨拶しに行って、ひょんなことから健太君とアルも会話した。単純に私にべったりのアルを健太君がからかっていただけだったけど……そこからの帰り道、確かに私は言ったのだ。


『でも嬉しいよ。アルがそうやって誰かと仲良くするのはさ』


 他愛ない会話だった。言った本人すら覚えていない、日常に埋没して忘れられていくただの軽口。


 大した影響力も、強制力も、何も持たないはずの、単なるつまらない話。


 でも。


『ユキ。僕があいつと仲良くすると嬉しい?』


 アルにとってはそれが、何より重要な言葉だった。


 取るに足らない単なる雑談。吐いて捨てるほどある日常会話。それでもアルには、何より大事なこと。


 だって、それを言っていたのが私だから。


『前にあいつを撃退したとき、ユキすごく嬉しそうだったでしょ』


 アルにとっては私が嬉しいことがすべてで、私が喜ぶことが絶対で、そのためならなんだってするのだ。


 ああそう言えば、アルが料理を始めたのも私の言葉がきっかけだったな。そんなことを私は思い出す。


 アルの唇がまた開いた。


「ユキ。僕とケンタが友達になったら嬉しい?」


 咄嗟だった。


 何も考えずに体が動いていた。本能的な反射、とでもいうのだろうか。


 私はアルの頬を叩いていた。


 手のひらを大きく開いて、その頬に横から叩きつける。いわゆる平手打ち。大した攻撃力もない、だけどそれ以上にわかりやすい、拒絶の証。


「……最低!」


 何が何だかわからないのに、その言葉だけがするりと出てきた。


 アルが頬を抑えている。大きく見開かれた目は動揺のままに揺れ、私のことを見つめていた。どうして。そんな顔ができるならどうして健太君の時は。ぎりと歯を食いしばる。何かがちぎれる音がして、じわじわ口の中に血の味が広がった。


 踵を返して歩き出す。懐から携帯電話を取り出した。機関の人に連絡を取って、健太君の側にいさせてもらおう。何もできないけれど、せめてすぐそばで願うぐらいは。


「ユキ」


 背後から、ざり、と土を踏みしめる音。


「ついてこないで!」


 辺り一帯に響く声。途端に背後の物音がやむ。私は後ろを振り返ることもせず、喉が張り裂けるぐらい叫んだ。


「……許さないから」


 私はそれだけ告げて歩き出した。


 背後からは、何の音も聞こえなかった。

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