第13話

「やだー!行かないでユキ!カイシャになんか行かないでここに居てよぉぉ!!!」


 泣きわめいている。これはもう清々しいほどに泣きじゃくっている。生まれたての赤子もかくやと言う勢いでなりふり構わず涙を垂れ流しまくっている。


 すごい。見た目だけは成人相当の人間がここまで泣きじゃくっている様を拝めるとは思わなかった。全く嬉しくない。むしろ怖い。


 それなりの年代に見える成人男性の渾身の駄々(しかもイケメン)がここまで精神に来るものだとは思わず、私はどんどん自分の目が死んでいくのを実感した。


「アル~……。このやり取り何回目?会社行かせてよ」


「やだ~!カイシャ行ったらユキしばらく帰ってこないし帰ってきたらきたで疲れたとか言ってすぐに寝ちゃうし!つまんない楽しくない耐えきれない~!」


「ワガママ言わないでよー。私は会社に行かなきゃいけないの。いろんな人に迷惑かかっちゃうからね」


「うそだよ!ユキほんとはカイシャ行かなくてもいいってあのメガネジジイが言ってた!」


「菅原あの野郎」


 思わず悪態が口をついた。額に青筋が浮いた気がする。


 アルの言うメガネジジイとやらは例の菅原さんのことだ。


 機関における私とアルの担当者であり、私たちとはかなり頻繁にコンタクトを取っている。おかげさまで基本人間の見分けがついていないアルもしっかり覚えているらしい。まあ、メガネの印象だけが先行しているみたいだが。


 しかしそれも無理のないこと。長身痩躯の針金のような体に、今時どこに売ってるのかと聞きたくなる黒い丸メガネが乗っかっていて、体にはびしっと着込んだスーツ。


 全身異彩を放っているが顔周りの印象が一番強い。私も彼の特徴をあげるならまずその丸メガネを真っ先にあげると思う。


 その一昔前のチャイニーズマフィアみたいな見た目の人がそっと耳打ちでもしたんだろう。あなたのママのユキさんは実はカイシャ行かなくても大丈夫なんですよ、とかなんとか。


 相変わらずあの表情の全く読めない無表情で、つらつらしゃべっているのが容易に想像できる。


 機関もその上層部も未だに私の出社を良く思っていない。その牙城を崩せるのならと、アルに余計なことを吹き込んだのは想像に難くなかった。


「だったら行かなくていいじゃん!ここにいてよユキ~!」


 相変わらずわんわん喚いてばかりのアルが、より一層私の体にしがみつく。いやいやと言いたげに顔を私の体に擦りつけた。うんこれ鼻水着いたな。私の目はいよいよもってご臨終を迎えた。


「行かなくていいとか行かなくちゃいけないとかより、私が!会社に!行きたいの!機関が何を言おうとアルが止めようと私は出社しますから~!」


「うわ~んユキの薄情!わからずや!この泥棒猫!あんたなんか浩二さんの遺産が目当てだったんでしょう!」


「ちょっと待ってどこで覚えたのそれ」


「昼にやってるドラマで人間のメスが言ってた」


 いかん。このままではアルの中の人間の文化や慣習が偏ってしまう。サブスク登録してまずは某アンパン辺りから見せて情操教育しないと……。


 まあ、それは後で対応するとして。


「とにかく、私はもう行くからねー!行ってきます!」


 しがみつくアルはそのままに、どうにかこうにか玄関の鍵まで手を伸ばす。がちゃんと錠を回して戸を開けた……が、そのあたりでアルの拘束が強まった。腰のあたりに回した手をより強く引き寄せて、私と体を密着させる。


 というよりこれ。


「ちょっと待ってこれサバオリ苦しい苦しい出る!胃が!」


「やだやだやだやだ行かないでユキ~!」


 苦しいやばい助けてくれ。頭の中で今度は怒りの日が流れ始めた。どうしよう、本当にまずい。このままじゃ胃どころか小腸まで出る…。


「あっアルだ!今日もユキねーちゃんに泣きついてやんのー!」


 ドアの隙間から響く無邪気な声に、アルの拘束が緩んだ。


 こっちに向かってひらひらと手を振る小さな影。近所の小学校指定の学帽に学生服。

 快活に笑う口元からは健康的な白い歯がのぞく。一本だけ歯が欠けているあたり、彼の健全な成長ぶりをうかがわせた。


 夏川健太君。私の部屋のお隣に住む小学生。


 このマンションは機関の占有するマンションであることからもお察しの通り、彼は機関構成員の方のお子さんである。


 と言って彼自身には何も特別なところはない。どこにでもいる普通の小学生男子だ。


 そして、最近アルにできた友達でもある。


「うるさいケンタ!黙ってよ!」


「ぷぷぷ、アルってホントにガキンチョー!俺よりでかいくせに~」


「うるさい、うるさい、うるさい!ユキの前で変なこと言うなー!」


 ぱっとアルの拘束が私から離れた。と思えば、アルはそのままドアから身を乗り出した。


 健太君は小さく飛び上がると、そのままアルから逃れるようにマンションの廊下を駆け抜けていく。


「じゃあね、ユキねーちゃん!アルのお世話頑張ってー!」


 健太君の声は尾を引いて遠ざかっていった。相変わらずの健脚だ。そのすぐ後を追うアルのドタバタした足音。


 人間の形になってから日が浅いアルは実はまだ体を動かすのに慣れておらず、動きは結構不格好だったりする。


 いつものあの不思議な力さえ使えば追いつくなど造作もないのだが…外では人間のフリをしていてと言った私の言いつけを律儀に守っているらしい。ありがたいことだ。


「健太君さまさまだなー…」


 私はポツリと呟いた。それに答える声はなく、私の出勤を妨げるものは何もない。


 ぐっと大きく伸びをして、そして家から一歩踏み出した。ついでに服にこびりついた鼻水を拭ってから。

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