第9話

いやあ、疲れた。今日も今日とて労働労働。疲れた身体に街灯の光が染みる。


 パンプスの音を響かせながら、私は駅からの帰り道を歩いていた。


 迫りくる締め切りと降りかかる雑務をこなしながら働くこと数時間。何とか今日中に終わらせたい仕事の目処がついた。


 明日の私に仕事を託しながら、私は帰宅の途についている。


 仕事は前と変わらず続けている。そう。アルと会う前と何も変わらず、だ。


 衣食住と生活は保証すると言われていた。働く必要はない、一生食うに困らない生活を約束する。地方や国家の枠を超えて、一プロジェクトとして私の人生を保証すると、機関の人-というかその背後にいる色々なお偉いさんたち―は明言した。


 しかし私は結構この仕事を気に入っていた。たまに嫌な人もいるが同僚は皆善い人だし、理不尽も不条理もあるがそれ以上にやりがいがある。アルと遭遇した日に頓挫しかけていてプロジェクトも何とか持ち直し、いよいよこれからというところ。私は仕事を続けることを選んだ。


 当たり前だが機関からは難色を示された。というより賛成してくれるところは一つとしてなかった。後ろ盾となっているいろいろな組織やら何やらも含めて、全ての部署から非難を受けた。


 いやぁあの時はすごかった。あんなに詰め寄られたのなんて昔兄のエロ本をうっかり見つけてリビングの机に置いてしまった時ぐらいではないだろうか?(その時の私は兄と盛大な喧嘩をしていた。閑話休題)


 まあ、当たり前だと思う。全地表生物を死滅させるかもしれない厄災の種、その唯一の抑止力たり得る人物が元凶の側を長時間離れる生活を続けるなどと、愚行としか思えない。


 機関、そしてその背後にいるという世界各国の上層部とやらにして見れば、魔王の監視に集中してくれと言うのが本音だろう。


 だけど私は嫌だった。絶対仕事をやめないと突っぱねた。強要するなら任務を降りるとまで言い張った。


 だって。


『一緒に永遠を生きよう!』


 ざわ、と背筋が総毛立つ。あの日。あの時。アルに連れて行かれた場所。


 何もないがある無限の虚。自分がどこにいるのか、そもそも誰か、ここはどこなのか何が起こっているのか……理解という脳の機能すら飲み込み消し去るひたすらの無窮。


 人間世界と隔絶した、どこでもないどこか。


 あのままあそこに居たらどうなっていたのだろう。


 あれを思い出す度に怖くて仕方なくなる。誰とも話せない、誰とも語り合えない、そもそも自分がいなくなる。


 自分自身が人間じゃなくなっていく感覚。溶けて消えていく私という存在。


 あの空間を一度経験した今、僅かとは言え人との繋がりを失うのは耐えがたい恐怖だった。


「……やめやめ。早く家に帰ろう!」


 大きく首を横に振って、止まっていた足を再び動かした。

 目指すは我が家。都心から少し外れた地区におっ立つワンルームマンション。


 狭苦しいながらも駅からのアクセスは良好で、なんだかんだお気に入りの一室。狭いながらも楽しい我が家、というやつである。


 まあ、アルと二人で暮らすには窮屈なので、さすがにそろそろ引っ越してもいいかもしれないとは思ってはいるが。どちらにせよ今の私の安住の地はあそこだけなのだ。


 疲労を早く癒したい気持ちも相まって、私の足どりは早まった。小さく鼻歌も歌いながらひたすら目の前の道を歩いていく。


 家にたどり着く最後の角を曲がろうと言うころ。ふと頭をよぎる思考が一つ。


「そう言えば、あの空間ってなんだったんだろう……」


 何もかも消えて無くなる闇の帳。アルが私を連れて行ったところ。

 あそこは一体、どこで、何で、何のための場所だったのか。


 我が家が燃えていた。


「……えっ?」


 うーうーかんかんかん、今頃になって耳に入ってくるサイレン。なんで気づかなかったのか。めちゃくちゃ騒がしいじゃないか。


 いや、そもそも。なんか妙に明るいことにどうして今の今まで気づかない?


 我が家が勢いよく燃えていた。


「……えっ?え、え?」


 燃えている。もうばっちりしっかり火に包まれて、マンション丸ごと燃えさかっている。


 建物ってこんなに勢いよく燃えるんだ。闇夜に火柱のようにおっ立つ愛しの我が家だったマンションを見上げて、私はぽかんと口を開けた。


「住民の避難は!?」


「それが、何故か奇跡的に全員外に連れ出されておりまして……。ペットなどの類もすべて無事らしく」


「なんだと!?それじゃこの大火災で被害者ゼロってのか!?水も消化剤もろくに効かないくせに隣棟には一切類焼しないとかいうわけのわからん燃え方してるのに!?」


「はい。俄には信じがたいですが、そうとしか……」


 消防士のおじさん達の怒号が聞こえてくる。


 へえ。奇跡的に被害者ゼロで、しかも炎がわけわかんない燃え方してて、おまけに通常の方法だと消えないんだ。そっかそっか。


 そんなの絶対人間業じゃないなあー。そう、例えば大魔王とかなら、そういう超不思議な火事も起こせそう。


「あっ、ユキ!」


 私に駆け寄ってくる明るい声。


 アルだ。


 もう説明する必要もないぐらいの晴れやかで明るい笑顔で……そう、朝に私に褒められたときと同じウキウキの笑顔で、私に向かって報告してくる。


「これでこのマンションにいたあいつ全部殺したよ!跡形もなく!ね、ユキ、褒めて−!ちゃんと人も死なせなかったよ!」


『塵も残さず!みたいなの出来たら最高だなって思うよー』


 ……言ったなあ。私。確かに言ってた。塵も残さず滅ぼせたら最高だなって。


 なるほど。このマンション、それなりに奴が居たんだね。近くに小さいながら公園もあるからしょうが無いね。神社や寺もあるからなあ。


 そしてアルは私があいつ殺したら喜んだの見て、もっといっぱい殺せばもっといっぱい褒めてもらえると思ったんだね。成程なるほど。なんてロジカル!


 そしてそいつらを一瞬で跡形もなく滅ぼす方法がこれだったと。


「……」


 ふっと吐息だけで笑って、そして目の前のマンションを改めて見据えて。


 私はそのまま気絶した。


 アルの声が聞こえたが最早耳には届かない。私の意識はどんどん暗い海の中に沈んでいく。


 そうだ、魔王と暮らすのはこういうことだ。知ってただろう私よ。こないだのカフェ倒壊事件を忘れたのか?


 そんな自分の内なる声が聞こえたが、聞ける余裕はなかった。



「幸いにも、ええ幸いにもマンションの住人は全て避難済みでしたので死傷者はなく、また彼らへの補償も機関の方から既に支払い済みです。新しい住居の紹介も済んでいます」


「ありがとうございますありがとうございます本当にありがとうございます……」


「そしてあなたと魔王は機関管理下のマンションへの入居をお願いします」


「えっあのちょ」


「こちら今回の災害事案にて発生した諸経費及び補償費の支払い金額です」


「謹んで入居させていただきます!」


 私とアルは機関のマンションに引っ越すことになった。


 そう。これが魔王との日常なのだ。

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