第2話
アルは魔王だ。
世界終焉自然発生型呪厄災害十三号。通称“魔王”。
危険度クラスはぶっちぎりのZ、世界を滅ぼすためだけに存在する恐怖の大王、破滅の使者……それがアルらしい。
らしい、というのは全て機関の人から聞きかじった情報だからだ。
機関はアルのような世界終末要因の発見、監視、無力化、あるいは征伐を目的とした秘密結社であり、この世界が終末へと導かれないよう影に日向に活躍しては世界の平穏を守っているのだとか。
その機関員たちが色を無くして恐れる超弩級の指定特殊災害、それがアルだという。
個人(というか個生物?)に対して冠される代名詞が『災害』であることからもお察しの通り、アルはとにかくとんでもない存在らしい。
滅ぼすための意思さえなくとも、降臨だけで地表生物の半数が死に絶え水は蒸発し世界は暗黒の大気に包まれ、生き残った人々もその余りの恐ろしい姿に発狂して死ぬとかなんとか。どこかで聞いたような設定だと思ったのは秘密だ。
だが、だ。当然のように地球は滅んでいないしどころか平和そのもの。私も発狂していないし人類は未だ地表にうぞうぞ湧いている。
これはどういうことかというと、アルが魔王としては未完成、幼体だったからだそうだ。
何をどうまかり間違ったのか、アルは完全体としてこの世に受肉しなかった。精神的にも肉体的にも未完成で未成熟な魔王としてこの地に降臨した。
おかげさまで降臨に際しての被害は大したことなくその力自体も機関の総力をあげれば十分抑え込めるレベルだったと言う。
未熟ながら魔王が降臨したと聞いた機関員たちは恐れおののき、そして迅速に出動した。この世界を守るために、未曾有の被害を食い止めるために。
機関の総力を挙げて部隊を結成し魔王の降臨地へと出動して、アルを追い詰めた。未成熟とは言え、いつ魔王として完成するか分かったものではない。機関はアルを駆逐しようと奮戦し、猛攻を受けたアルはひどく消耗した。
魔王殲滅まであともう一息と迫ったその時。しかしアルは逃げ出した。機関は当然血眼になって追跡を開始する。
だが、残った力のすべてを闘争に費やしているアルを見つけるのは至難の業だったらしい。
厳重な包囲網をすり抜けてアルは逃げ延びた。降臨地からはるか遠く、更に遠く騒がしい地へと。
具体的に言うと新宿のゴールデン街の辺りに、である。
なぜそこに?とは心底思うが今回の論点はそこではない。問題は新宿ゴールデン街に潜んだアルが精根尽き果て裏路地に倒れ、そしてその場にたまたま私が通りがかってしまったことにある。
その日私はしこたま酔っていた。抱えていたプロジェクトが頓挫しかけてもう飲まなきゃやってられなかった。一軒目を過ぎ二軒目に繰り出してそしていよいよ三軒目、その頃には流石に付き合ってくれていた後輩も居なくなっていたような気がする。
覚束ない思考と足取りのままなんとなく街並みを歩き、そして何の気なしに裏路地を覗き込んだ。
そして、そこでわさわさ蠢いている“何か”を見た。
こちらに伸ばされる名状しがたい色合いをした不定形の腕らしきもの。頭の中に直接響く声。地球上の生物ならあり得ないはずの交信手段。
その声が言っている。確実に日本語ではない、どころか地球上の言語とすら思えない奇怪な音なのに、どうしてか意味がわかる。助けて、と。確かにそう言っていた。
超常現象の数々に普段の私ならば恐怖で失神でもしていたのだろうが……繰り返すがこの日私はしこたまに、べろんべろんの虎よりなおひどく酔っていた。
『えーなに君困ってるの?オッケオッケーいいよー!助けちゃう!うちおいで!ごはん作ってやろうじゃないかー!』
多分こんな感じの調子のいいことを言って、私はへらへらとアルを抱えて家に帰った。
馬鹿なんだろうか?馬鹿だと思う。今ならそう思えるが、しかしその時の私はアメーバよりもIQが低かったので、そんなこと微塵も考えちゃいなかった。
アルを自分のせまっ苦しいワンルームに連れて帰って、何かしら世話をしてやったり面倒を見てやったり逆に面倒をかけたりした。んだと思う。何せこの辺から記憶がない。とにもかくにも私は実際アルを家へ匿い一晩の宿を提供してやった。
そして翌朝、目が覚めた時にはすでに今の姿のアルが目の前にいたのである。
アルのこの姿は私の記憶から抽出した好みの外形を模したものらしい。おかげさまで私は朝起きてすぐ自分の好みドンピシャストレートの大変イケメンお兄さんの顔面爆撃を受け理解が及ばず悲鳴を上げることになった。
しかしもっと大変だったのはこの後だ。私のことを見つめて相好を崩したアルは至極嬉しそうに私に抱き着いてきた。
『ありがとうユキ。助けてくれて。僕をこんな風に助けてくれた生物なんて初めて…』
イケメンに突然抱き着かれたあげくその相手が得体のしれない不審者となれば、さすがにときめきよりも恐怖が勝る。私は恐怖でガタガタと震えた。
アルは一度離れて私のことを見つめなおすと、やはり無邪気で裏の無い笑顔のままでこう言った。
『だから連れていくね。二人っきりで永遠に生きよう!』
そこから先のことは覚えていない。
否、思い出したくない。暗くて冷たくて怖くて何もないがあるだけの何かの中で、ただアルの顔だけが見えていた、と思う。
自分という存在がかき回されて溶けて崩れて曖昧になる無窮の中、体が生きるのをやめたことだけははっきり認識できた。食事も睡眠も何もかも、呼吸すらも億劫で、生きると言う意思が根こそぎ奪われてしまったのを覚えている。
憔悴していくばかりの私をアルは何とか元気づけようとしていたようだが、全てが無駄に終わった。私は日に日にやせ衰えていった。
着実に死の淵へと向かう私にアルが聞いた。何が欲しい、何が必要だ、そのためなら何でもするから、と。
私は答えた。帰りたい。人間の世界じゃないと生きていけない、と。
そしてアルは応えた。私を抱えて謎の無限の空間から脱出し、彼の知る唯一の人間であろう機関員の前に堂々と現れた。
『ユキを助けろ!できなければ世界を滅ぼす!』
機関員たちは動揺した。あれほど探し求めた相手があっさりと目の前に現れたこともそうだが、何よりあれほど追い詰め消耗させたはずの魔王が復活しているばかりか、以前とは比べ物にならないほど強大な力を手にしていることに度肝を抜かれたのだ。
幼体どころの話ではない。世界を滅ぼす終末装置としてこれなら十分機能し得る。アルは最早機関の手に負えない完全体の魔王となって君臨していた。
それだけの力を持った殺戮機構が今、ただの一人の女の助命を願い叶わなければ世界を滅ぼすと言う。
どう考えても単なる脅しではなかった。誇張でもなんでもなく、この女性の命を救わなければ世界は滅ぶ。
機関員たちは総力を挙げて私の治療に当たった。幸いにして私の体調はあの空間に押し込められたことによる消耗が原因だったため、適切な治療を受け人の輪に囲まれて生活することですぐに元気を取り戻すことができた。
私は元の生活に戻れて世界も滅びず、全てが丸く収まった。いやぁ一件落着めでたしめでたし…。
と、なればよかったのだが。
『ユキさん。あなたにはこれから…魔王専属の監視員になっていただきます!』
運命と言うのは皮肉なものである。私はなぜかアルの監視員に任命されてしまった。
話は単純である。アルは魔王として完全に覚醒を遂げた。しかし世界を滅ぼすつもりはない。私がこの世界にいるからで、そしてこの世界で無ければ私が生きていけないからだ。さらにアルは私から離れるつもりがない。
だったらアルの一番近くにいる私を監視員に任命して、動向を注視させるのが一番得策であろう。
私がいるから世界を滅ぼすつもりがないとはいえ、アルの力は未だ甚大であり、その影響力は計り知れない。気まぐれ一つで世界を滅ぼす災害をどうして野放しにできようか。
そんな感じの決定を経て、私は機関員としてアルの監視任務にあたることになった。
ちなみに機関員として登録されることもアルの監視任務にあたることも私の意思は全く考慮されなかった。
これはいわゆる非常事態に対する人類の究極的な使命であり、地方や国家のレベルを超え全世界的な決定であり、何より私が世界に対して果たすべき義務だとかなんとか。
あと安易に魔王を助けその覚醒に寄与した責任を取ってくださいと言われた。ぐうの音も出なかった。
『あの、専属の監視員とかなんとか言ってますけど…具体的に何をすれば』
『特に何も?あの魔王はあなたが元気に生活し自分の隣にいること以外のなにも求めていないようですから。魔王に会う前とまったく同じように、普通に生活してください。ただし…』
『た、ただし?』
『あの魔王はあの通り尋常ならざる力を持っています。あなたの生活に付き従っているだけでもとんでもない騒動を巻き起こすに違いない……だからなるべく人間の倫理観や常識に沿った行動をするよう教え諭してほしいのです。あの魔王は何故かあなたに異常なほど執着していますから、あなたの言葉なら聞くでしょう』
『……すみません、それってなんか監視員と言うよりお母さんみたいに聞こえるんですが』
『ああ、それいいですね。あなたは魔王のママです。素敵な息子に育て上げてくださいね。世界を破壊させないように』
なんて頭が悪くなりそうなやりとりだろう。しかし現実である。
ママが嫌なら彼女になりますか向こうはどうもそのつもりのようですが、なんて更に頭の悪い提案もされたので、私は謹んで魔王の監視役……ママ役をお受けした。
というわけで私は今、このでっかいでっかいイケメン幼児大魔王のママとして子育てに奮闘しているのである―世界の命運をかけて。
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