九
あっと気づいた時には、田鶴の体は網に取られていた。
体が宙に浮かび、羽はたちまちに自由を奪われる。ぎりぎりと体をしめつける痛みに、田鶴の目には薄い涙がにじんだ。
獣を捕らえるための罠だと知っていた。見たことがあったからだ。網に引っかかった者がそのまま動けず、やがては猟師の手にかかるところを。まるで、蜘蛛の糸に絡め取られた蝶を見ているようだった。あれを見てから、十分注意深くしていたつもりなのに、と田鶴は眉をしかめる。しかし悔いてももう遅い。
(みじめだなあ……)
ひゅうう、と乾いた風が吹く。避けることもできない田鶴をそれがなぶっていくたび、己の心もまた乾いていくように、彼女には思われた。
木々があざ笑うように揺れる。雲が遠くを流れていく。太陽はその向こうに隠れ、風に巻き上げられた枯れ葉はどす黒い逆光になった。
(寒い、誰か……)
太陽がすっぽりと雲に覆われる。田鶴は祈るように目を閉じた。世界はあまりにも静かで、あまりに淋しかった。
さくさく
ただひとつ、響いた足音を除いて。
「おんやあ、鶴がかかってるよ。めずらしいこともあるもんだあ」
そして響いたのは、その場にそぐわない、どこまでも無邪気な声だった。
それにつられるようにして、雲の覆いから太陽がそっと顔を出してしまうほど。さんさんと広がる陽の光のようにやわらかくのどかな声に、田鶴は思わず目を見開いてその声の主を――ひとりの男を眺める。
土まみれの顔の農夫がそこにはいた。
格好はみすぼらしく、決して裕福には見えない。手にはよく使い込まれた鎌があり、反対の手には刈り取られた雑草が数房。手にはたくさんのたこがあり、爪には土が入り込んでいた。
しかし、そんな中でも彼の目は、汚れをものともしない子犬のように澄んでいた。
きらきらと光るつぶらな瞳に、田鶴は静かに目を細める。
彼の瞳がまっすぐに田鶴をとらえている。しかしそこに変な他意はなく、ただただ田鶴を気の毒に思っているのが、瞳の色だけでわかる。
「まっててくれなあ……」
ばつん
男はおもむろに網を鎌で切ると、すとんと田鶴が地面に落ちる前にすくい取った。ごつごつした手のひらが、田鶴の白い羽を支える。がっしりとした、大きな手だった。
網がほどけて、はらはらと落ちてゆく。
田鶴は急に泣きたくなって、ふっと顔をそむけた。
「さあ、これで飛んでけるさね。ほら、ほら」
男が笑って、空を指差す。いつの間にか太陽は雲の群れから抜け、さんさんと空を照らしていた。いつもよりずっと、空が大きく見えた。美しい空だった。
(この人は見返りも求めずに、あたしを助けてくれた)
男はなおも、空を指差して笑っている。瞳に映り込んだ空も、また美しかった。
(こんな人がいるんなら、人の世も悪くないかもしれないねえ……)
その空の色を受けて、白銀に光る羽。
(あたし、この人に恩返しがしたい)
田鶴は、そう思いながら己の羽を広げた。
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