「けっしてこの戸を開けてはいけませんよ」 

 田鶴がそう言った時、男は神妙な顔でうなずいていた。

 初めて男にそう言った時、彼はそれを守る気持ちを持っていたのだろう。実際、今までは言いつけ通り、部屋をのぞくことはなかった。その間に、田鶴は白くしなやかな鳥となって美しい反物を織った。時折、その中に己の輝かしい羽を混ぜながら。それを売ることで、男の家族は豊かになった。



 あの頃は、それが純粋に嬉しかった。ただそれだけだった。

 愚かだった。



 すぱん

 障子がいっぱいに開かれた時、田鶴は鳥の姿のまま、機織りをしている最中だった。

 杼を「糸」の間にくぐらせているところで、人の姿に変化する間もなく。ただ呆然と、いきなり目の前に現れた男を見つめるしかなかった。


「田鶴……」

 子どものように純粋な瞳が見開かれ、男の口からぽろりと名前が零れ落ちる。田鶴は、思わずぶるぶると首を振った。

『だから、開けるなと……』

 声を発するも、それはあくまで鳥の声にしかならず、男の耳には言葉が伝わらない。ばさばさと羽が散り、反物を美しく仕立てていた白銀のそれが、皮肉なまでに輝いて畳に落ちた。


「おらは、なんてことを……」


 それに引きずられるように、男が畳の上にうずくまる。

 田鶴の反物によって豊かになり、男の身なりはずいぶんと良くなった。それでもどうしても抜けきれない強い訛りが、虚しく部屋の中に響いていた。


「ごめんなあ、田鶴。おら、気になって気になって、しかたなくなっちまったんだ。どうしておらたちのために、あんなにきれいな反物織ってくれんのか、どうやって織ってんのかってなあ……」


 宙を舞っていた羽が、夢から現実に醒めるように全て畳に落ちる。それをぼんやりと見つめながら、田鶴はただ黙ったまま機織り機の前に座っていた。


 目の前には織りかけの反物。

 男は、自分の姿をはっきりと目にしてしまった。そして、自分が田鶴だということもわかってしまった。



――人に助けられたから、人の世で生きたいだと? 笑わせるな。もし正体がばれたら、お前は一族の笑い者だ。一生罵られるぞ。


 かつて、父に言われたことを、田鶴は思い出す。

 目に見えない何かを恐れるように羽を震わせて、父は何度も何度もそう言った。そのたび母は黙ったまま、ただじっと田鶴のことを見ていた。


 三羽が立ち尽くす湿地には、どこまでも美しい光が差し込んでいた。水面は螺鈿のように輝いていた。木々は静かにそびえ、空では穏やかな雲が手を広げていた。


「お前は一族の面汚しだ、半端者」



 父からそう言われたのは、美しい日だった。

 あの時、田鶴は目を細め、太陽や水面があまりにまぶしいというふりをしながら、もう引き返せないことを薄ぼんやりと感じていた。

 



 騒ぎに気づいて、男の家族たちが部屋に押し寄せる。

 うずくまった男と、呆然と座り込んだ鳥を見て、彼らはしばらく困惑したように立ち尽くす。痛いほどの沈黙。

 それに耐えかねて男が声を発しようと瞬間、男の祖母が金切り声を上げた。



「化け鳥め、出て行け!」



「何を言うとるんです、母さん。田鶴さんは……反物を織ってわしらを助けてくれたんじゃ」

 慌ててなだめる男の父に対して、祖母はぎろりと雷のように鋭い視線を向ける。

「わしは前から、こういう金もうけは嫌だと言うとったわ。苦労なすったご先祖様に申し訳が立たんわい。そうしたら鳥が化けとったがな! わしの目は狂っちょらんかったよ。おおこわやこわや」

「だがねえ……」

「わしらには百姓が合っとるてえ、神様のお言葉じゃ。昔から化かされたらよくないことが起こるんよ。わしらを肥やして、喰おうとしたのやもしれん……」



 半端者。

 化け鳥。


 己に向けられた言葉を、思い出す。



 田鶴を尻目に言い合いをする者たちをぼんやりと見つめながら、田鶴はおもむろに羽を伸ばした。その先には、鈍く光る裁ちばさみ。



――ばつん


 田鶴は、そのはさみを持って、織りかけの反物を勢いよく断ち切った。




「田鶴……」

 機織り機から引きはがされた反物は、きらきらと綾のようにきらめく。

 きらきらと、皮肉なまでに。



 ぎい

 それをどこか冷ややかに見つめながら、田鶴は己の足爪で、断ったばかりの反物を思い切り引き裂いた。



 ああ、と思わず漏れた一家の悲鳴。

 それに、すうっと静かに目を細め、田鶴はぼろぼろになった羽をめいっぱい広げる。




 そしてそのまま大きく羽ばたき、部屋を飛び出したのだった。



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