五
「ずいぶん昔のことを思い出してしまったねえ」
たづはひとりごちて、庵の中で眠る少年に目をやった。
若鳥が少年に変化した後、たづは彼を庵の中に移した。数刻も持たないだろうが、こごえるような山の夜に放置するよりは良いだろう。たづは軽く息をついて、少年の思わしくない容体について考える。
彼の体は、火傷やあざや、ひっかき傷、刃物の傷など、とにかく傷だらけだった。
そのせいで血まみれになり、膿んでいる部分もある。ひっかき傷は三本が連なっており、たづは頭上で飛び回っていた鳥たちの爪を思い出す。それ以外の傷は、人によるものだろうか。足は特にすり傷にまみれていて、彼が必死で逃げてきたことを思わせた。
「鳥にも、人にもなれない者……」
そう低く呟いて、たづは静かに髪を梳く。
(死神を呼んでやった方が、楽になるかね)
傷に加え、少年は先ほどから高い熱が出ている。たづは山で育ったわけではないから、どの植物が薬になるのかもよくわからない。ただこうして、風をしのげる庵の中に入れてやることしかできなかった。そして、安らかな死を与える助けになることしか。
(あたしが死ぬ前は、本当に苦しかったからねえ……)
食べられるものもなく、ただ震える足で、死を予感したころを思い出す。
夕陽さえも己の敵のように思え、しかし怒る気力もなく、どうしようもなくそこに在るだけだった。あまりの空腹に、空腹でない時がどうであったかを忘れ、何も食べていないのに力が湧く妙な瞬間が訪れることもあれば、何倍もの疲れがどっと押し寄せることもあった。ただ虚しかった。
そこから当然のように死と死後を与えられ、今に至る。食べ物を必要としないから、飢えることもない。死神と毎日のように会う生活は奇妙だったが、慣れてしまえばどうということはない。ゆるやかな契りで結ばれた、生と死のはざまの「反物」織り。
死んだ後は、季節の巡りがいちだんと早くなり、落ち葉はたちまちに落ち、雪はまばたきの間に溶けてしまうように思われた。最初こそ、その果てしなさにめまいがするほどだったのに。
だからたづは、自分がどれだけここにいて、何反の「反物」を仕上げてきたのか、もうわからない。人間でも、鳥でも考えられないほどの時間をすごしているのかもしれないし、実はそうでもないのかもしれない。しかし、それは今のたづにとってはどうでもよいこと。
そうして、幾度目かももうわからない秋が、たづの元にやってきたのだった。
(あたしはもう、生き物ではなくなってしまったんだねえ……)
ふと、少年が薄く目を開いた。
それを見て取ったたづはゆっくりと立ち上がり、少年のそばに寄る。
「お前、山の鳥たちに随分いじめられていたよ。今はあたしの庵の中にいる。聞こえるかいね?」
熱にうかされた瞳で、少年はゆっくりとたづを見つめる。
「ど、う、し、て……」
乾いた唇から、ゆっくりと言葉がこぼれる。たづは訝しげに目を細めた。
「どうして?」
「ぼ、く、は……、う、ま、れ、か」
そこで力尽きたのか、少年はそのまま眠りに落ちてしまった。相変わらず呼吸は荒く、表情はずいぶんと苦しそうに見える。汗ばんだ髪を払ってやりながら、たづは先ほどの言葉を思い返していた。
(うまれか?)
いくら考えてもよくわからないからと、たづはひとまず機織り機の前に座る。まだ織り終えていない「反物」はたくさんある。それに、機織り機の音が少年の苦しみを少しでも癒せればいいという思いも、少なからずはあった。
ぎい、ばたん
山奥に響く、機織りの音。その音は優しく心地よかったが、死を織っているゆえか、拭いきれない淋しさがあった。それをよくよく知りながら、たづは機織りを進める。杼をすべらせ、踏み木を踏み、「糸」を切る。
ぎい、ぎい、ぎいい
とん、とん
ぎい、ぎい、ぎい、ぎい……
墨黒の「反物」が、次第に長さを増していく。その隅で、少年は眠り続けている。
夜が更ける。山が静まる。
「うまれか……」
ふと、少年の言葉が頭の中でよみがえる。
何かを言いかけて、止まってしまった言葉。
機織りの音の中に混じり合うように、その言葉がたづの口元にのぼり、そして、ほろりと自然に口が動いた。
「うまれかわる……」
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