四
誰もいない、夕暮の田のそばを歩いていた。
すべてを飲みこんでしまいそうなほど大きな太陽が、空を赤々と照らしている。刈られた稲の茎は墨黒の蔭に沈み、土の湿った匂いは薄暗い不気味さを持って広がる。
乾いた空気の中を、ふらふらと歩いていた。人の姿ではなかった。夕陽を吸い込んでいながらも白とわかる、ぼろぼろながらもしなやかさを残す羽を持っていた。
(ここで死ぬんだろうねえ)
――化け鳥め、出て行け!
――お前は一族の面汚しだ、半端者。
この身にぶつけられた石つぶて、拳、悪しき言葉の数々を思い出し、ふっと己をあざ笑う。弱々しく震える足は、体を支えるだけで精いっぱいだった。
心なしか、目がかすむ。もうしばらく十分な餌を探すことができていない。見つけたと思っても、俊敏に逃げていってしまう。その繰り返しだった。羽を広げて飛ぼうにも、もう力が入らない。
(これも定めか……)
頭の中に、ぎい、ばたん、と懐かしい音が響く。人の姿を取らなくなってから、時の流れがわからなくなってしまった。あれからどれくらい経ったのか、もう思い出すことができない。
(あたしは、死ぬのか……)
――りいん
ふと、不思議な音が響いた。
それは鈴の音によく似ていたが、それにしてはずいぶんと作り物じみている。普段ならば、その不気味さに背筋が凍るところなのだが、瀕死の彼女にとっては、それがなぜか心地よく感じられた。
(ああ、やはりあたしは死ぬんだねえ)
音の鳴る方向へ、墨黒の首をかすかに伸ばす。すると、そこには同じ色の「布」を被った者たちが、乱れひとつない列を成していた。気配や足音、匂いはない。ただ、あの鈴の音のような響きが聞こえるばかりだった。
そうとわかって後も、彼女はどこかゆるやかな気持ちのまま、それを迎えていた。
「あなたはこれより死を迎えまする」
どこからともなく告げられたその言葉にも、おどろくことはしなかった。目を細めて、首肯の代わりとしただけだった。
しかし、死神はこう言葉を続けた。
「ただし、あなたにはその死の
ざあ
と風が吹いた。
稲の残骸が乾いた音を立て、白い羽をかすかに揺らす。彼女は思わず、まじまじと目の前の者たちを見つめた。
「あたしに……」
鳥の姿で、餓死寸前であるというのに、不思議なほど滑らかに声を発することができた。おそらく、目の前の者たち――死神の力によるものなのだろう。
死神は、動くこともなく淡々と返事をした。
「はい。あなたは人の形を取り、機織りをしていたことがありますでしょう。そのお力を借り、我々の『反物師』として働いていただきたいのです」
「『反物師』……ね」
死神はそれには答えず、じっと見つめるようにして沈黙する。彼女は、彼らを覆う墨黒の「布」を、訝しげに見やった。
「なぜ……あたしなんだい? 機織りがうまい者なら、そこら中にいるだろうに……」
死神は答えない。
「それに、死んだ後にって……。どうしてそこまで……」
ひたり
途端に、すべての音が止んだ。
自然は死を恐れるように鳴りを潜め、気づけば毒々しいほどの赤い光ばかりが広がっている。それ以外の音が、畏怖するように、諦めるように、姿を消している。時が止まったかのような不気味な沈黙の中、淡々と何事もないように立つ死神は、ひどく異様に見える。
……彼女ははっとして、それから己をあざ笑うように目を細めた。
「ああ……これは『罰』なんだね……。あたしは『禁忌』を犯したから……」
死神は肯定も否定もしなかった。
しかし、それは肯定の証なのだとわかった。
それゆえに、溜め息をついて、ゆっくりと目を閉じる。
「ならば、断ることはできないねえ。……わかった。あたしを『反物師』とやらにしておくれ」
「承知いたしました」
美しくも不自然な声が響いた後、頭の上に滑らかな黒い蔭に似た何かが降りてくるのを感じる。極上の絹のようにやわらかなそれは、赤い夕暮をさえぎり、生命の匂いをもさえぎり、生を死へと反転させていく。
しだいに目の前が暗くなっていくのを感じながら、彼女は意識をゆるりと手放した。
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