〈一章 始まりの春〉

1話 出逢った日のこと

 やっと暖かくなり始めた春の日の午後のことだった。


 寒さが苦手な私はこの季節になると、縮こまっていた身体がふわっと開放されたような感覚に心が躍る。


 思いっきり大きく息を吸い込んで、すぅーっと吐き出すと気持ちよかった。


 始業式を終えた後、賑やかな生徒の群れを避けて図書館に籠もっていた。少しの間、本を読みながら静かになった頃を見計らって外に出てくる。


 咲き誇る桜並木の景色に見とれながら、ゆっくりと歩いていく。わざわざ遠くにに行かなくても、日常のこんな所にもある絵画のような景色は、私だけの宝物を見つけた気がして嬉しい。


 そんな、珍しく浮かれた気持ちの日に出逢ったのがあの人だった。


 本の続きを読もうと図書館から部室に向かっていた。誰も寄り付かない、あの静かな部屋なら家にいるよりも集中できる。そう思って部室に行ったのが、思えば間違っていたのかもしれない。


 案の定、誰もいない部室に入って窓を開けると、心地良い春風がほこりくささを消してくれる。ちょうど良く陽が入る席を選んで座ると、本を開いてさっきの続きを読み始めた。







 パチン!!


 次の瞬間、パッと周りが明るくなった。


 驚いて顔を上げると、見知らぬ男性が立っている。この人が電気をつけたんだ……スイッチに手を掛けたままのその人は、私を見てニコニコと微笑んでいる。


「部員さん……かな? 」


 読書を邪魔されたからかもしれない、なぜか私は、その人のさそうな笑顔に苛立いらだった。


「はい、そうですけど……」


 少し考えれば聞いていた新任の先生だという事はわかったはずなのに、つい不審者を見るような目を向けてしまったのを、今もよく覚えている。


「新しく顧問になった澤田さわだです。よろしく」

「よろしくお願いします」


 生徒にするとは思えない程丁寧な挨拶に、私も慌てて挨拶をした。でもなんだかいい気がしない、人と関わるのが苦手だからクラスメイトとか先生とか、やむを得ない場合にはしっかり心の準備をしたい。それなのにこんな不意打ち……心臓がずっとバクバクと音を立てている。


「他の部員さんは? 」

「他は……あまりここには来ません、どこかに入部しなければならないので籍だけ置いてるんです」

「それは、幽霊部員ってこと? 」

「そうですね」

「そうなんだ、で、えっと……君が部長さん? 」

「いえ、部長は三年の吉永さんという方で、塾があるので部室に来るのは週に一度です、月曜に来ると思います」

「月曜かぁ、月曜は会議とかで来られるか分からないんだけど……でも会っておかないとね」


 私の冷たい態度にも笑顔を崩さない先生は、私の事をどう思っていたんだろう。


 本の続きが気になっていた私に、先生はまだ話し掛けようとする。


「名前……聞いてもいいかな? 」

「あ、えっと、神崎かんざきです、神崎史織かんざきしおり


 つい慌てた。しっかり話せていると思ったのに名乗るのをすっかり忘れていたなんて。


神崎かんざきさんね、よくここに来るの? 」

「はい、本を読みたくて……」


 恥ずかしさで顔が上気してる、早くここから逃げたい、帰ってくれたらいいのに……。


「そうなんだ、邪魔しちゃってごめんね」

「いえ……」

「でも時間だいじょうぶ? 暗くなってきてるよ? 」

「いま何時ですか? 」

「5時になったかな」


 時間を聞いた私は更に慌てた。没頭していたとしても一時間くらいだと思ったのに、三時間もここで本を読んでいたなんて……またやっちゃった。


「帰らなきゃ、すみません、失礼します」


 慌てて本をかばんに押し込めて上着を羽織る。


「気をつけてね」


 先生の横をすり抜けて走り出した私の背後から大きな声が聞こえたけど、返事はもう返さなかった。







 息を切らして外に出ると、夕陽のオレンジが押し込められて空は藍色に染まり始めていた。駐輪場にぽつんと残された自転車を見つけ、駆け寄る。


 鍵を取り出そうとかばんを開けると、変えたばかりのピンクのスマホが光っている。


[今日、帰り遅いの? 13:47]

[何時頃になりそう? 15:08]

[遅くなるのはいいけど大丈夫なの? 連絡くらいしなさい 16:46]


 お母さんからだった。今日は始業式だったから、普通なら昼過ぎには帰れていた。連絡しなかったし、全然気づかなかったから怒られても仕方ない。


[ごめんなさい、本読んでて。すぐ帰るね 17:12]


 返信してから急いで自転車に乗り、桜並木を瞬速で通り過ぎる。今度は景色を眺める余裕もないまま、門を出て坂を駆け下りていく私は、自由になりたい、そう思っていた。

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