第8話 名を名乗るほどの者ではないので
「くしゅん」
俺は「あ」と思わず喉を震わせる。
お嬢様のくしゃみを聞いて、彼女が雨で濡れたままであることを思い出した。
鉄壁の女子校制服は、雨で濡れてもスケスケにならないように、ブラウスが露出しない作りになっている。首元まできっちりフックで防御が固められている徹底ぶり。
これなら真冬の寒さでも暖かいこと間違いなし。だからと言って、ずぶ濡れで寒くないわけではない。
「ごめんなさい。忘れてました」
俺は言いながらコンビニで購入したタオルを彼女に手渡す。
「?」
お嬢様は小首を傾げた。
「使ってください。そのままだと風邪を引きます」
おもむろにお嬢様は懐から財布を出そうとしたので、それを手で制した。
「……いいの?」
「そのために買ってきたんで。どうぞ使ってください」
「……」
お嬢様はしばらく受け取ったタオルをじっと見つめた後、俺に目を向ける。
「拭いて」
「え゛」
「拭いて」
「なぜにです?」
「いつもは家の人にやってもらってて」
「はい」
「どうすればいいか分からない」
出た出たお嬢様属性ですよ。
本当にいるんだ。家の人に身の周りのお世話をさせているせいで、自分でなにもできないお嬢様。
まあ、特に断る理由もないので俺はタオルを返してもらって、彼女の背後に回って頭をわしゃわしゃ―はしないで、丁寧に髪を拭う。
「ん……」
「痛くないですか?」
「ううん。君、上手だね」
「それはどうも」
ふっ……なにせ女子の髪を拭くのはこれが2回目だしな!
仮に、これが初回であったなら、俺は大変ドギマギしてしまい、それを恋と勘違いしてお嬢様に告白からの玉砕で、枕をティッシュ代わりに濡らす自信がある。
ありがとう! 八百万! 心の友よ!
「ふきふき」
「……ん」
とはいえ、まさか1日に2回も女子の頭を拭くことになろうとは。人生なにがあるか分からないもんだ。
「わんわん!」
そういえば、子犬も拭いてやったのだった。つまり、今日だけで2人と1匹をふきふきしたわけか。
「……」
「がるるるるる!」
「しゅん」
俺が頭を拭いてる間、手持ち無沙汰だったのかお嬢様が子犬に再び餌付けを試みた。が、やっぱり失敗して悲しそうにしている。
しかし、ここに来て子犬に変化を訪れた。
「くんくん」
「?」
突然、威嚇をやめたかと思えば、お嬢様の手をくんくんと嗅ぐ。やがて、「ふんっ」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「!」
お嬢様が嬉しそうに俺を見てくる。
まだまだ懐かれたわけではないが、威嚇されなくなったのは十分前進したと言える。
「よかったね」
子供みたいにはしゃぐお嬢様に、思わず敬語を忘れて言ってしまう。お嬢様は気にしていないのか、すでに視線は俺から子犬に向けられていた。
「この子、連れて帰る」
「そうですか……こっちも拭き終わりましたよ」
「ありがとう」
俺が彼女から離れると、彼女は俺に向きなおって薄く笑みを浮かべる。
「少しは懐いてもらえてよかったですね」
「……うん」
ふぅ。これで子犬の問題は解決だな。
「それじゃあ、俺はこの辺で」
そう言ってこの場を立ち去ろうとしたところ―。
「待って」
と、お嬢様に呼び止められる。反射的に振り返れば、目の鼻の先にお嬢様の端正の顔があった。
「ちょ……ちかっ」
「お礼」
「へ?」
「お礼がしたいから、うちに来て」
「はい?」
金の瞳が俺を射抜く。
あ、これ社交辞令的なあれじゃなくて、マジなやつだ。別に大丈夫です~とか言っても、是が非でもお礼をするまでまとわりついてくる――そんな感じの目をしている。
「い、いやぁ……お礼なんてぜんぜん」
「お礼するまで放さない」
「はっ!?」
いつのまにか腕を拘束されている!?
しかも、体が密着している!?
それにこのやわらかい感触――は、とくになかった。さすがお嬢様女子校の鉄壁制服である。かための材質な制服の感触が、俺のの制服越しに伝わってくるぜ。
って、なにを残念に思っているんだ俺は。
「いやいや、本当にいいから!」
子犬の件が片付いたのだ。これ以上の接触は危険。こんな美少女に「お礼がしたい」とか言われて、家に連れ込まれたら最後。あんなことやこんなことが起きて、うっかり彼女のことを好きになって告白して玉砕する未来しか見えない……!
「うっ」
「どうしたの? 急に胸を抑えて。苦しいの?」
「いや、ちょっと心の古傷が傷んで……」
先輩のことを思い出してしまった。鬱である。
ふと、彼女が心配そうに俺の顔を覗き込む。その際、腕の拘束が緩んだので、隙を見て彼女から距離を取った。
「そ、それじゃあ俺はこれで!」
「あ……ま、待って。せめて、名前だけでも」
「名を名乗るほどのものじゃないんで!!」
俺はその場から駆け出して――そういえば、傘を置いたままだったことを思い出した。が、このまま戻るわけにもいかず、俺は雨の中で傘もささず走った。
※
「……」
雨の中、屋根のあるベンチで捨てられた子犬と一緒にいるのは、金髪の美少女――。
「行っちゃった」
少女は遠ざかっていく修太朗の背中を見つめながら、ぽつりと呟く。
「?」
少女は地面になにか落ちていることに気づいた。近寄って、それを手に取る。
「……生徒手帳?」
その直後、「お嬢様~」と執事服を身にまとった若い女性が、傘を持って現れた。
「お、遅れて申し訳ありません! 事故があったみたいで、道路が渋滞しておりまして……」
「……」
「あ、でも勝手にあちこち歩き回ってはダメですよ? おかげで探すのに苦労したのですからね?」
黒の艶やかな髪を1つに束ねた女性は、凛とした表情で金髪の少女に注意をする。しかし、少女はそれをまったく聞いていないようす。
執事は「はぁ」と諦めたようにため息をこぼした。
「ともかく、帰りましょう。そのままでは風邪を引きます」
「あの子」
と、少女はベンチに置かれた段ボールを指さす。執事がそれを確認すると、中には子犬がうずくまっていた。
「ま、また捨て犬ですか? お嬢様……こう何度も捨て犬を保護されては、お屋敷が動物園になってしまいますよ」
「でも、見捨てられないから」
「……」
「可哀想」
「わ、分かりましたよ! 私だってそこまで鬼じゃないですから! でも、旦那様にはお嬢様の口からちゃんと説明するのですよ?」
「うん」
そうして少女は子犬と一緒に、迎えの車に乗り込む。
「シートベルトを締めてくださいね?」
「うん」
少女は執事に返事をしながら、先ほど拾った生徒手帳をじっと眺める。
「……飛翔高校。2年2組。千葉 修太朗くん」
それから 「ふふ」と少女は笑みをこぼす。それを見たのは、そばで寝ていた子犬だけだった。
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